月に叢雲、花に風
月に叢雲、花に風。
人工物の明かりがなく、月明かりを遮る建物もないこの時代。
月は輪郭を際立たせ、本来の姿のまま美しく輝く。
時には、漂い流れる叢雲が月に憩い、朧にその姿を隠す。
花は季節の移ろいに散りゆき、時には人々の機微として都都逸となり、後世に残る。
「咲いた桜に なぜ駒つなぐ 駒が勇めば 花が散る」
儚い男女の関係のように、あの日、男の子の発言で束の間の安寧は崩れ去る。
男の子は食べ足りなかったらしく、新たに食べたい寿司を母親に伝えた。
母親は気軽に、奥さんへ向かって言う。
「すみません。サーモンの握りにマヨネーズを塗って、炙ってください」
しばしの奥さんの沈黙。
その声は、確かに親方の耳に届いている。
男の子はニコニコと無邪気に声を上げる。
「サーモン炙りマヨネーズ」
まるで魔法の言葉でも見つけたように目を輝かせ、何度も繰り返した。
カウンター内、足元からすっと冷気が流れる。
親方は注文を受け取ると、自分に言い聞かせるように呟いた。
「白だ黒だと喧嘩はおよし、白と言う字も墨で書く」
客がいないことをいいことに、親方は憤怒の表情で寿司を握る。
冷蔵庫から取り出したマヨネーズを、震える指先で塗る。
それから、ふと考えて甘だれを刷毛の先から寿司に垂らした。
やはり職人の性なのか、美味しいものをつくる拘りは捨てられないようだ。
トーチバーナーで炙り始める。
その表情は、すべてを浄化する不動明王。
口角は上がり、笑っているとも怒っているとも判断がつかない。
瞳にはトーチの炎が写り込む。
炙られた寿司は炭になることなく、表面を薄く火を通す程度に焼き上げられた。
マヨネーズと甘だれが焦げの香りをまとい、ふわりと立ちのぼるサーモンの脂の匂いが追いかけてくる。
皿に盛られた二貫は、奥さんの手により運ばれる。
カウンターの向こう側で皿を受け取るとき、奥さんが親方にだけ聞こえる小声で囁いた。
「月に叢雲、花に風とは、よくぞ言うたよ。世の習い」
その声は、荒ぶる親方の心をそっと包むような、柔らかな響きだった。
握り終えると、親方は珍しく小さな椅子にドカリと腰を下ろした。
そのとき、男の子の「美味しいよ」という喜ぶ声が届く。
疲れた顔の親方に、ようやく表情が戻った。
その声を追いかけるように、若い夫の、のんびりとした声がする。
「すみません、僕にもサーモン炙りマヨネーズ、お願いします」
満足して帰っていく親子三人を見送ると、その日は早めの店じまいとなった。
親方は自ら外に出て暖簾を片づけ、しばし夜空を見上げている。
かつて全米を制したのは、日本の歌『SUKIYAKI』だった。
俺はクーズベイの田舎町でも、サムやジャック、友人たちから歌い聞かされた。
坂本九の歌う「上を向いて歩こう」。
俺もどこかで誰かに勇気づけられていた。
酔った勢いで「親方の鰻は日本一」と杯を上げた客。
俺は、親方の“KABAYAKI”は世界一だと、その背中に言葉を添えたくなっていた。
今でも、あの夜に立ち尽くす親方の後ろ姿を思い返すと、胸の奥がふっと熱を帯びる。
光は隠れ、風は向かう。
それでも親方は、上を向いて歩く人だった。




