お品書きに増えたサーモン握り
お品書きに増えたサーモン握りと鰻の握り。
常連客が店を訪れ、カウンターに座って新たな寿司ネタに気づくと、「おっ」と、わずかに目を見開いた。
その反応を、親方は知らん顔で受け流す。
「サーモン、いいねえ」と肯定的に笑う客もいれば、「鰻の握りなんて珍しいねえ」と興味津々に身を乗り出す客もいる。
親方は「まあ、奥さんがな」とだけ言って、ぶっきらぼうに寿司を握り続けた。
今までにないネタだけに、常連客たちは、とりあえずその二つを頼んでいた。
食べた客たちは二つの寿司に舌鼓を打ち、「うまいねえ」とか「意外とシャリに合っている」と、親方の試みをほめそやした。
そのたびに、親方の顔に浮かぶ引き攣った笑顔を、俺は見逃さなかった。
奥さんは奥で微笑んでいる。
客は和やかに寿司をつまむ。
そうして好評を博した寿司ネタは少しずつ人気となり、出前の寿司盛にサーモンや鰻の握りを加えてほしいという依頼が増えてきた。
親方の胸の奥で鰻への愛憎がじわりと深まっていくのを、俺はヒリヒリと肌で感じていた。
常連客の中には寿司を頼まず、鰻の蒲焼きを肴に一杯飲みだす者もいて、酔った勢いで「親方の鰻は日本一」と杯を上げる。
俺は親方の握る包丁が微かに震えていることを見逃さなかった。
奥さんは隣で緑茶を淹れながら、誰にも気づかれないように、そっと親方の背を撫でて微笑んでいた。
ある週末、常連客の息子夫婦と名乗る若い二人が、小さな男の子を連れて店の暖簾をくぐった。
どうやら二人は回らない寿司屋に馴染みがなく、ましてや子どもは初めての体験らしく、店内をキョロキョロと見まわしては、信楽焼の狸を見つけて親方と見比べ、なぜか嬉しそうに笑っていた。
親方夫婦は、その男の子の姿を目に映し、和やかに微笑んでいた。
若い二人は奥の座敷に案内されると、一人前桶の寿司を二人前頼み、サーモンと鰻の握りを内容に加えてほしいと注文した。
男の子も自分で注文したいらしく、奥さんに向かって、「サーモン、玉子、かっぱ巻き、アボカド巻き」と元気な声を店内に響かせた。
奥さんは少し困惑した様子で、「きゅうりの細巻きはできるけど、アボカドの細巻きは置いてないのよ」と小声で答える。
「えー」と残念がる男の子の声が続いた。
その会話は、カウンターの内で寿司を握る親方の耳に、しっかりと届いている。
張り詰めた空気が、静かに、しかし確実にカウンターの内側へ流れ込んでくる。
注文が入ると、親方はカウンターのネタケースからネタを取り出し、素早く握る。
細巻きも、その大きな手からは想像できないほど繊細に動き、六つ切りのかっぱ巻きを完成させた。
奥さんはできた寿司桶をテーブルに運ぶ。
親子は美味しそうに食べて、男の子が細巻きを頬張ったまま、「回るお寿司よりおいしいよ」と話している。
親方の顔に笑顔が戻り、機嫌の良さがそのまま伝わってくる。
親子三人以外に客はいない、和やかな時間が過ぎていく。
束の間の安らぎ。
奥さんの淹れる緑茶の香りが店内に漂う。
俺はそのひとときだけ、心配は杞憂に終わるかと甘い考えを持っていた。
長年育まれた鰻の甘だれと、人々の機微はどこまでも奥が深い。
けれど、親方の甘だれは、まだ日が浅い。




