知っていくこの世界のこと
茉乃の初出勤の日。
その日の柊は朝からすこぶる機嫌が悪かった。
一昨日の夕食はどうしても冷静になれなくて断ってしまったが、結局茉乃と一緒に過ごしたい気持ちの方が強くなり、昨日は一緒に食べようと自分から誘ってみた。
その時間から作るのは大変だから外に食べに行こうと言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。そんな小さなことが柊の気持ちを明るくしてくれる。
よく行く洋食屋で美味しい食事を楽しんだ後、帰りの車の中で、その日の午前中に茉乃が沢木と二人、公園で過ごしていたことを知った。
(二人っきりで公園で、一時間以上も話していたのか?しかも名前を呼び合うほど仲良くなって?)
その場ではただ笑ってやり過ごしたが、湧き上がるどろどろとした気持ちに蓋もできないまま、ほぼ寝られない夜を過ごした。
そして翌朝に戻る。
「柊さん?何かあったんですか?もしかして体調が悪いとか・・・?」
心配そうに顔を覗き込んでくる茉乃に、触れてみたい衝動に駆られる。
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけだから。」
いつもの笑顔で誤魔化してみるが、茉乃はまだ不安そうな顔をしていた。
茉乃は心配していた。
朝から柊の様子がおかしい。昨夜はあんなに楽しそうに過ごしていたのに、今朝はずっと苦しそうな顔をしていた。
(まさか食あたりとか!?)
さすがにそれは無いかと考え直したが、結局研究所に到着するまで、彼の調子が良くなることはなかった。
研究室の前で柊と別れ、茉乃はノックをして研究室に入った。
「おはよう、マノちゃん。」
沢木が爽やかな笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします。」
丁寧に挨拶すると、にこやかに微笑んでから、今日の内容について教えてくれた。
「まず、しばらくは午前中座学に集中してもらう。この世界の知識と魔法術について学んでいかないことには、突破口が見えにくいからね。午後は様々な書籍を解読してもらって、これも研究に役立てていきたい。大まかにはこんな流れかな。何か質問はある?」
茉乃は少し悩んだが、首を振った。
「いえ、今のところは大丈夫です。また何かあればその都度お聞きします。」
「わかった。それじゃあちょっと準備するから待っててね。」
茉乃は一応ノートと筆記用具を持ち込んでいた。文字が崩れてしまうとしても、書いたものを読めば元に戻るならそうすればいいと考えたからだ。
「お待たせ!じゃあそこに座って。」
沢木が今日は先生になるらしい。大きな机に向かい合わせに座ってノートを広げる。
「文字、書いてみるの?」
「はい、書いて駄目でも、読めば戻るかもしれないので。」
「そっか。じゃあそれも試してみよう。」
そこからはいくつもの映像素材を活用しながら、この世界について学んでいった。
そこでわかったことは、どうやら各国で文字の乱れは起きていたらしいこと、しかし全ての文字が全滅したのは日本語だけだったこと。
そのかわり、魔法術によるホログラム技術がいち早く実現化し、魔法の力が弱い人達でも学んだり仕事がしやすいような仕組みが確立されていったことなどだ。
「文字が無いって、想像以上に大変なことですよね・・・。」
茉乃がしみじみとそう話すと、沢木が少し暗い表情で頷いた。
「そうなんだ。魔法が補えることにも限界がある。魔法が全く使えない人はもうほとんどいないが、弱い力しか持っていない人は国民全体の三割近くいると言われている。そしてそれが、身分社会を再び生み出してしまったんだ。」
茉乃は驚いた。
「え、平等じゃないんですか?」
沢木は眉間に皺を寄せて答えた。
「平等じゃない。市街地の建物が全て低いのがなぜだか聞いたかい?」
「いえ、そういえばまだ教えてもらっていませんでした。」
「あれはね、魔法術師の中でもトップクラスの力を持つ者達だけが、空を飛べるからなんだ。そして彼らが自由に空を飛べるように、高い建物を建ててはいけないという法律ができたんだ。」
今度は驚きすぎて口を開けたまま止まってしまった。
「マノちゃん、口が開いてる・・・」
沢木の声に慌てて口を閉じると、聞き返してしまった。
「空、飛べるんですか!?」
「そうなんだ。そういう特別な力を持っている階級を、昔の貴族階級を表す言葉を復活させて『華族』と呼ぶようになった。実に馬鹿げた考え方だとは思うが、そういう俺らも能力的には『華族』なんだ。」
「え、それって・・・」
沢木は立ち上がって近くにあったポットから冷たいお茶をカップに入れて茉乃に差し出す。
「ありがとうございます。」
「うん。・・・ここの研究員は全員それなりにエリート、つまり全員空が飛べる。空が飛べるのは強い魔法の力を持っている証でもある。」
「すごい!!」
「でも、空を飛べなくても、魔法以外の別の能力が高い人だってもちろんいるんだ。それなのに上の人間は、『華族』の名を与えることができる人材でなければ、政府関係の仕事には就けないと決めた。」
「そんな・・・」
まさかこの世界にそんな身分の違いが存在しているとは思わず、茉乃はかなりショックを受けた。
「だからこそ俺達は文字を復活させたい。本当に優秀な者達が魔法や身分のせいで力を示せない世の中を変えていきたい。・・・マノちゃん。」
沢木は姿勢を正して向き合った。
「はい。」
「君の存在は俺達の希望なんだ。この世界の嫌な面も見せなきゃならないし、うまくいかないこともあるだろうけど、君のことは全力で守るから、力を貸してほしい!」
柊と同じことをお願いされたな、と思い出し、クスッと笑う。
「ごめんなさい、柊さんにも同じようなことを言われたので。もちろんです。私にできることは何でもしますから、遠慮なく言ってくださいね!」
沢木は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、マノちゃん。君がここに来てくれて本当によかった。」
「そ、そんな大した者ではないので・・・」
照れて目を伏せると、沢木が小さく笑っていた。




