一応の和解と、停戦協定
ようやく地上に降り立っても、秋東はぐったりとしたままだった。吉野が全力で殴りつけた天使が動けないのはともかく、秋東が動かないのはおかしい。なぜなら、
「……あ、当ててないんだよな?」
ちょっと怖くなって確認すると、セネカは頷いた。顔の横で軽く拳を握りながら、
「当ててない。寸止め」
それを聞いて、安堵する。さすがにセネカが秋東を打撃したのでは、どれだけ手加減していたとしても確実に秋東は死んでしまう。別に吉野は、秋東を殺そうとは思っていなかったのだ。それは事前の、わずかな時間での打ち合わせで確認していた。
吉野が全力で殴っても天使が戦闘不能になっただけで済んでいるのは、セネカの威力調節の問題だ。あの魔法は勿論、吉野が行使したわけではない。セネカが吉野にも同じ力を伝播させていただけだ。それも、吉野が全力で攻撃しても天使が壊れない程度にまで抑えた力。
そしてセネカの方は、どれほど威力を絞っても魔法を当てられれば生身の人間は絶対に耐えられないと踏んで、寸止めするように、と。結果的にそれは正解だったわけだが。
ともかく秋東は、無事のはずだ。
吉野は恐る恐る、へたり込み、俯いたままの秋東のもとへ近づく。
「なあ、おい? 大丈夫なんだよな?」
「……どういうつもりよ、あんた」
低い声で、秋東は言う。深く垂れた髪のせいで顔は窺えないが、明らかに怒っている。
「どういうって、何が?」
「ホムンクルスの前に生身で飛び込んで。何、あんた、自殺志願者? ――いつから」
「え?」
「いつから入れ替わってたの。あんたは、あんたのそのホムンクルスと!?」
秋東の背に添えられていたセネカの手を乱暴に振り払い、秋東は吉野を睨む。
えっと、と思わず吉野は視線を逸らしながら、
「そりゃあ、まあ……直前に」
半壊した校舎から秋東に姿を見せる前に、咄嗟に思いついた作戦だ。作戦というにはややお粗末かもしれないが。
吉野とセネカの姿を入れ替える。幻影の吉野、つまりセネカは秋東に、幻影のセネカである吉野はトルクシュタインへ向かう。ホムンクルスを倒すならば、確かに人形遣いを狙うことは定石だ。秋東だってそうしていた。だが、そのために幻影とはいえ人形遣い自らが囮になるような真似をするなど、秋東の常識ではまず考えられない。ましてや吉野は四式の武装型を装備しているわけではなく、ほぼ完全な生身だったのだ。
「あー……まあ、俺は人形遣いとかいうのになってからまだ日が浅いし」
というかこれで二戦目だし。
初戦には真柴がいたから、実質的にはこれが初戦だ。
だから人形遣いの常識なんて、知らない。
「それに、信じてたからな」
「信じてた? 何を」
「――セネカを、だよ」
いつの間にか、セネカは吉野の隣に移動し、その手を握っている。
きゅ、と籠もるわずかな力を感じながら、吉野は笑った。
「俺は俺が死なないことを想像した。そしてそれを現実にできると、セネカを信じた。だから、セネカは創造してくれた」
勘違いしていたのだ。セネカにはどれほどのことができるのかと。セネカには何ができるのかと。しかし、考え方が逆だった。真柴との通話でそれを思い出させられた。
セネカには何ができるか、ではない。
吉野には何が想像できるか、だ。
吉野はどんな世界を思い描くか。想うことができるのなら、セネカが創ってくれる。何度も聞いた、それだけのこと。
全て手探りをするような戦いだった。
けれど――
「掴んだものはあった、気がする」
「掴んだ? 何を」
自分の掌を見下ろす吉野に秋東は攻撃的に問い返す。
その問いに、それは、と答えかけて、しかし吉野の言葉は続かない。
んー、と少し考え込んでから、苦笑した。
「いや、何とも言えないんだけど、さ」
「何よそれ……もういいわ。それよりも、もうひとつ」
ギリッと秋東は吉野を睨み上げ、吐き捨てるように言う。
「どうして私を殺さないの。私はあんたを殺そうとした。何よ……ヒーローでも気取りたいの? ここで私を見逃しても、私はまたあんたを殺しに来る。必ずよ。いいの? ――殺すなら、今が最後のチャンスよ」
苦々しげに、秋東は言う。確かにそうなのかもしれない。天使は崩れるように座り込んだまま動かず、光を纏うことはできない。だがそれも、時とともに回復できることだろう。秋東を殺さないにしても、天使の方はここで再起不能にしておくべきなのではないか。
「いや……殺さない。秋東さんも殺さないし、ホムンクルスも壊さない」
きっぱりと、吉野は言った。それに対し、秋東は眼光鋭く声を荒げ、
「そんな温情なんて――」
「温情じゃない」
秋東のような激情に駆られた声ではない。だが確かな強さを含んだ口調だ。
その強さを以て、吉野は秋東に言う。
「あんたに情をかけようっていうわけじゃない――だから殺さないわけじゃない。でもこれからも殺しに来られるっていうのは、俺も困る。だから、こうしないか」
すっと、吉野は秋東へ手を差し伸べた。
「……何」
秋東は、差し出された吉野の手を見る。柔らかく、掌を上にした手。
「停戦しよう」
吉野は、そう言った。
「しばらく、俺とセネカを攻撃するのを待ってくれ。様子を見ていてくれないか」
「どうして」
「――俺だって、世界なんていらないんだ」
手を差し出したまま、吉野は肩をすくめる。
「あんた、人の話全然聞かなかったけどさ。俺だって、世界なんていらない。真柴さんにだってはっきりそう言った。まあ真柴さんも全然俺の話を聞いてくれないんだけど……とにかく、さ。俺も、あんたと大体同意見なんだ。俺も、世界をどうこうしようとは思ってない」
だから、と吉野は言う。
「協力しよう、とは言わない。だから、停戦しよう。俺は世界をどうにかする気はないけれど、セネカを壊そうとだって思わない。でもきっと、このまま騙し騙しやっていくのも無理だろうし……だから、俺がセネカを、世界をどうするのかを決めるまで、停戦してくれ」
「……そんな提案に、私があっさりと乗るとでも思うの?」
警戒は取らず、秋東は言う。
「あんたを信じろって? 吉野くん。あんたが本当に世界なんていらないと思ってるって。どうして信じられるのよ。それにあんたが気を変えて世界を手に入れたくなったときはどうするのさ」
「そのときは、また遠慮なく俺とセネカを攻撃しに来てくれていい」
停戦さ、と吉野は言った。
「勿論、俺もただでやられるのは嫌だけれど……再戦する。お互いにお互いの目的のために、な。だから今は、一時休戦だ」
どうだろう、と吉野は秋東を見る。秋東は、差し出されっ放しの吉野の手に視線を向けた。
「……どのみち、トルクは戦えない。私に選択肢はないわ」
不承不承、という気持ちを全身に押し出しながらも、秋東は吉野の手を取った。
「いいでしょう、乗ってあげるわ、停戦協定――でも覚悟しておきなさい。あんたがその七式を使って世界を手に入れようとしたそのときには、本当に容赦なく、遠慮なく、潰してやるんだから」
「ああ、わかってる」
ぐ、と秋東を引き上げながら、吉野は笑った。
ふん、と鼻を鳴らして、秋東は手を振り払う。
「馴れ馴れしくしないでよね。あくまでも停戦。仲間になるわけじゃない……あんたもそう言ったでしょ」
「ああ、そうだな」
ほっと吐息して、ようやく吉野は肩の力を抜いた。安堵した吉野に、しかし秋東は釘を刺すように言う。
「でも、私をそうして止めておいたところで、状況が好転したわけじゃないでしょ。他にも人形遣いは襲ってくるだろうし、協会だってその七式を確保しようとしてる。私に加勢してもらえるなんて絶対に思わないでよ」
「それもわかってるよ……ああ、それに、そうだ」
「何?」
「その、協会って奴なんだが……何なんだ、それ」
吉野としては純粋な質問だったのだが、秋東はまるで信じられないようなものを見るような視線を向けてきた。
「え、な、何?」
「あんた……協会も知らないの?」
「知らないから訊いたんだけど……」
知っていないとそんなにマズいことなのだろうか。戸惑う吉野に対し、秋東は心底呆れた、というように空を仰いだ。
「そんなことも知らないで、七式がどうとか、世界が何だとかやってたわけ? ……あー、もう。何だか私までバカみたい」
「そこまで言うことないじゃないか。あんただって知ってるんじゃないのか? 俺はまだほとんど何も」
「あーはいはい、わかったから。いい? 協会っていうのは――」
言いかけたところで、しかし秋東は先を続けなかった。顔をしかめて空を見上げてから、未だ動けないでいる自分の天使を一瞥し、ため息をつく。
「それよりも先に、今はここを出ましょう。いつまでも結界を張っておけばまた別の人形遣いを呼び寄せることになりかねないし……トルクの回復もさせたいわ。話はそれから。それでいいでしょ?」
いいでしょ、と言いながらも有無を言わさぬ迫力に、お、おう、と思わず吉野は頷く。
それを見て、初めて、秋東は笑った。
「勿論、七式があんた以外の連中に渡ったときだって私は全力で破壊しに行くから、せいぜい頑張ることね、新人くん」




