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アイソフェミア ―第4次産業革命が魔法と呼ばれた世界―  作者: ArgasNorn


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魔法の夜明け

二〇二三年十月十七日、午前十時(北米東部時間)。


アーガスノルン・コーポレーション北米支部、イベントホール。


客席を埋めているのは、世界中から招かれた記者と投資家、それに科学者たちだった。ホールの外にも中継車がずらりと並び、配信サイトの同時視聴者数を示す数字は、開始前からすでに三千万を超えていた。


照明が落ち、巨大なスクリーンに白い文字が浮かび上がる。


〈Remote Physical Interference by Nanomachines〉

〈ナノマシンによる遠隔物理干渉の実現〉


舞台の袖から現れたのは、北米支部の最高技術責任者、ダニエル・アシュクロフトだった。四十代半ば、黒いタートルネックに細身のジャケット。マイクを持たず、胸元の小さな集音器だけで、彼は穏やかに話し始めた。


「皆さん、おはようございます。今日は、長い前置きはしません。まずは、見ていただきたい」


彼は演台の上に置かれたガラスのコップを手に取り、中の水を、何もない空中へ傾けた。


客席から小さな悲鳴が上がった。


水は、床に落ちなかった。


コップからこぼれた水は、彼の胸の高さでぴたりと止まり、ゆっくりと丸まって、透明な球になった。照明を受けて、虹色の光が球の内側でゆらめいている。


「これを私たちは、社内で『力場』と呼んでいます」


アシュクロフトは、水の球の周りを一周した。球は、宙に浮いたまま微動だにしない。


「仕組みを簡単にご説明しましょう」


スクリーンに、無数の小さな点が漂う映像が映し出された。


「この会場の空気の中には、いま、私たちが開発した極小のナノマシンが散布されています。一つひとつは、ウイルスよりも小さい。人体には無害で、呼吸しても影響はありません。この無数のナノマシンが、外部からの信号を受けて互いに連携し、空間の特定の場所に力を生み出す。それが力場です」


彼は指を鳴らした。


水の球が、ふっと二つに分かれた。それから四つに、八つに。小さな水滴の群れが、まるで意志を持つ魚の群れのように、彼の頭上で螺旋を描いて舞い上がる。


客席は、もう誰も声を出していなかった。


「続いて、もう少し実用的なものを」


舞台の端から、スタッフが野球のボールを投げるための投球機を押してきた。アシュクロフトは、その真正面、十メートルほど先に立った。


「時速百五十キロで、私に向けて撃ってください」


乾いた音とともに、白いボールが放たれた。


そして、彼の顔の三十センチ手前で、止まった。


空中に、見えない壁に縫い留められたように、ボールは静止していた。縫い目のひとつひとつまで、客席の最前列からはっきり見えた。


アシュクロフトは、そのボールを指でつまみ、客席に向かって軽く放った。


「災害現場で崩れかけた建物を支える。事故の衝撃から人を守る。医療の現場で、メスを使わずに体内の組織を動かす。力場は、私たちの社会のあらゆる物理的な限界を変えるでしょう」


彼は客席を見渡し、静かに微笑んだ。


「人類は長い間、これを魔法と呼んできました。今日から、それは技術になります」


一拍おいて、ホールが割れるような拍手に包まれた。


その日、世界中のSNSで、ひとつの言葉が瞬く間に広がった。


〈#魔法は実在した〉


水の球の動画は、数時間で数億回再生された。子どもが真似をしてコップの水をこぼす動画、宗教指導者の困惑したコメント、物理学者たちの「理論的に説明がつかない」という投稿。そのすべてが、さらに拡散された。


同日夕方、各国のニュース番組は、ほぼ同じ映像から始まった。


「本日、アーガスノルン・コーポレーションが発表した新技術『力場』を受け、同社の株価は取引開始直後から急騰。終値は前日比で四十二パーセント高と、上場以来最大の上げ幅を記録しました。市場関係者からは『産業革命以来の転換点』との声も上がっています。一方、ナノマシンの空気中への散布について、安全性を懸念する声も一部で……」


アナウンサーはそこで原稿をめくり、次のニュースへ移った。


同じ頃、東京。垓亜重工本社、役員室。


六十代半ばになった篠宮遼は、壁のモニターに映る水の球を、黙って見つめていた。かつての主任研究員は、いまは研究開発部門を率いる常務取締役になっている。


「空気中の、極小のナノマシン。外部からの信号で連携する」


彼はアシュクロフトの言葉を、ひとつずつ口の中で繰り返した。


三十一年前、窓のない地下の会議室。ガンマ線で滅菌した部屋の中だけで、消えた二つの物質。空気中の何か。届かなくなった信号。


「あの日、我々が見ていたのは、これだったのか」


机の引き出しの奥には、色あせた手書きの報告書が、今もしまってあった。


そして、ヴァルト市。


古いアパートの一室で、五十代になったリサ・ベルクは、ノートパソコンの画面を閉じた。ヴァルト中央放送を辞めてから、もう二十年になる。いまは小さな独立系メディアを一人で運営していた。


彼女は本棚から、角の擦り切れた手帳を取り出した。


最初の頁に、かすれたインクで書かれた名前がある。


〈ヨハン・クレール〉


その下に、いくつもの名前が続いていた。ペーター・ノイマン。そして、二十年かけて書き足していった、数十の名前。そのほとんどの横に、小さく「拘束」と書き添えてある。


リサは新しい頁を開き、震える字で書いた。


〈二〇二三年十月十七日 アイソフェミア、公開〉


それから、少し考えて、書き加えた。


〈あれは三十年前から、ずっと私たちの周りの空気の中にいた〉

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