無菌室の沈黙
一九九二年三月十二日、木曜日、午後七時。垓亜重工本社、地下三階、第二特別会議室。
窓のない部屋だった。長いテーブルに座っているのは九人。取締役が三人、研究開発本部の幹部が四人、法務部長、そして末席に、まだ三十歳を過ぎたばかりの主任研究員、篠宮遼がいた。
壁際のOHPがかたかたと音を立て、スクリーンに手書きの表を映し出している。
「それでは、報告を始めさせていただきます」
研究開発本部長の久我が、資料をめくった。白髪まじりの、痩せた男だった。
「先月より、当社の独自分析系を用いて、ベネボリンおよびマレボリンの追試を行ってまいりました。通常の研究室環境では、アーガスノルン社の発表とほぼ同じ傾向の数値が得られています。受刑者群ではマレボリンが高く、篤志家群ではベネボリンが高い」
テーブルの数人が、小さくうなずいた。ここまでは、誰もが知っている話だった。
「問題は、ここからです」
久我は次のシートに替えた。スクリーンに、四角い部屋の図面が映る。
「相模原の研究所に、外部と完全に遮断した検査室を用意しました。給排気は閉鎖系とし、出入りは二重扉を通じてのみ行います。室内の分析装置、器具、机や椅子に至るまで、すべての備品をガンマ線で徹底的に滅菌しました。その上で、受刑者群十二名、篤志家群十二名の血液を、同じ手順で分析しました」
久我は一度、言葉を切った。
「結果、ベネボリン、マレボリンともに、一切検出されませんでした。二十四検体、すべてです」
部屋の空気が、目に見えて固くなった。
「装置の不具合では」取締役の一人が言った。
「同じ装置を検査室の外に出し、同じ検体の残りを測ると、両物質は再び検出されます。装置は正常です。検体も同じです。変わったのは、部屋の中か外か、それだけです」
久我はスクリーンを見上げた。
「つまり、血液の中にもともとこの物質は存在しない。測定の場の空気中に、結果を歪ませる何らかの物質がある。そう推測せざるを得ません」
しばらく、誰も口を開かなかった。OHPの冷却ファンの音だけが、低く鳴り続けていた。
「空気中の物質が、検体ごとに都合よく数値を変える」常務の三条が、ゆっくりと言った。「受刑者には悪人の数値を、篤志家には善人の数値を。そんな物質がこの世にあるのかね」
「現在の科学では、説明できません」久我は正直に答えた。「ですが、アーガスノルン社には、我々の知らない何かがある。それだけは確かです」
末席の篠宮が、遠慮がちに手を挙げた。
「一点だけ、補足させてください。あの検査室は、精密測定のために電波も遮断する構造になっています。空気中の物質だけでなく、外から届く何らかの信号が遮られたことで、結果が変わった可能性も捨てきれません」
「どちらにせよ」三条は言った。「外部から測定に干渉されている、ということだな」
「はい」
法務部長の宇佐美が、眼鏡を外して布で拭いた。
「では、伺います。これを公表すれば、どうなりますか」
久我は答えなかった。代わりに答えたのは三条だった。
「先週の『ナイトライン』を見たかね。あの生化学者が言っていた。他社の装置でばらつきが出るのは、装置が劣っている証拠だと」
宇佐美がうなずく。
「我々が『特殊な部屋では物質が消えた』と発表すれば、世間はこう受け取ります。垓亜重工の装置は、特殊な条件では測定すらできない欠陥品だ、と。しかも、アーガスノルン社に対抗するために、根拠のない陰謀論を流している企業だ、とね」
「それに」別の取締役が低い声で言った。「ヴァルトの教師の件だ。噂では、彼は何かを公表しようとして、あの一斉検査の名簿に入れられたらしい。予防保護法は、来年にはこの国でも審議に入る。そのとき、うちの社員が検査を受けたら、どんな数値が出ると思う」
誰も答えなかった。答えは全員が分かっていた。
「我々の血液も、あの会社の装置で測られるのだよ」
社長の椅子は空席だった。最終判断は、筆頭取締役である三条に委ねられていた。
三条は長い間、スクリーンに映った部屋の図面を見つめていた。それから、静かに言った。
「本件は、社外秘の最上位とする。報告書は三部のみ作成し、一部をこの部屋の金庫に、一部を相模原に、一部を私が預かる。追試は継続。ただし、記録はすべて手書きで残し、社内の計算機には一切入力しないこと」
「公表は」篠宮が思わず口にした。
三条は、若い研究員を見た。その目には怒りも、冷たさもなかった。ただ、疲れた人間の目だった。
「篠宮くん。正しいことを言う者が、いちばん先に消される時代になった。我々が今やるべきことは、正しさを証明することではない。正しさが通じる日まで、生き残ることだ」
OHPの電源が切られ、スクリーンが白く光ってから、ゆっくりと暗くなった。
会議室を出た篠宮は、エレベーターの中で、自分の腕を見下ろした。シャツの袖の下、去年の健康診断で採血した痕は、とうに消えている。
それでも彼には、そこにまだ、細い針の冷たさが残っているような気がした。




