予防保護法
二月二十八日、金曜日。
朝から雪がちらついていた。三時間目の算数で、ヨハンは黒板に分数の問題を書いていた。
「じゃあ、この答えが分かる人」
前の席のアンナが、勢いよく手を挙げる。いつもいちばんに手を挙げる子だ。
そのとき、廊下で足音がした。ひとつではない。重い靴の音がいくつも重なり、教室の前で止まった。
扉が開いた。校長が立っていた。顔色が紙のように白い。その後ろに、紺色の制服の警察官が三人。そして、あの灰色のスーツの男。
「クレール先生」校長の声はかすれていた。「少し、廊下へ」
子どもたちがざわめいた。ヨハンはチョークを置き、手についた白い粉を払った。不思議と、驚きはなかった。月曜日の、あの一瞬の目つき。あれは、もう答えを知っている人間の目だったのだ。
廊下に出ると、警察官の一人が紙を広げた。
「ヨハン・クレールさん。予防保護法第四条に基づき、あなたを保護拘束します。検査の結果、あなたの血中マレボリン濃度は基準値を超えています」
「私は何もしていません」
「そういう問題ではありません」警察官は申し訳なさそうな顔さえしなかった。「数値の問題です」
ヨハンは、スーツの男を見た。
「あのフロッピーは、届いたんですね」
男は何も答えなかった。ただ、ほんのわずかに口の端を上げた。
手錠はかけられなかった。それが、かえって恐ろしかった。抵抗する理由のない人間を連れていくように、警察官たちは彼の両脇に静かに立った。
教室の扉の小窓に、子どもたちの顔が鈴なりに並んでいた。アンナが、まだ手を半分挙げたままこちらを見ている。
「先生、答え……」
ヨハンは笑ってみせようとした。うまくいったかどうか、自分では分からなかった。
「アンナ、四分の三だ。合ってるよ」
それが、彼がその学校で口にした最後の言葉になった。
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三月一日、日曜日、午後九時。ヴァルト中央放送、報道局。
警察当局からの発表文は、夕方に届いていた。「再検査の結果も同様。予防保護法の初の適用事例」。
「トップで行く」と、副部長のマルクス・ゼーマンは言った。「見出しは『前科なしの教師』。外見では分からない、という点を強調しろ。保護者の声も拾ってこい。不安がっている母親がいい」
若い記者が手を挙げた。「弁護士のコメントも入れますか。釈放を求めているそうですが」
「入れろ。最後に一行だけな。公平に見えるように」
編集室の隅で、新人のリサ・ベルクは、配られた原稿を握りしめていた。
ヨハン・クレール。ヴァルト市第三小学校。
どこかで見た名前だった。几帳面な字で、便箋に書かれていた名前。算数のテストと書かれた、三枚のフロッピー。
「ただの悪戯だったよ」
一か月前の副部長の声が、耳の奥で蘇った。
スタジオのモニターに、オープニングの映像が流れ始める。アナウンサーが、落ち着いた声で原稿を読み上げた。
「こんばんは。今夜は、予防保護法に基づく初の拘束のニュースからお伝えします。拘束されたのは、市内の小学校に勤める、前科のない男性教師でした……」
画面には、雪の積もった校舎の映像が映っていた。
リサは、副部長の背中を見た。ゼーマンは腕を組み、満足そうにモニターを眺めていた。




