ホワリッジの朝
マナ大陸の北の果てに、ホワリッジという小さな町がある。
古い言葉で「白い尾根」を意味する名前だと、町の年寄りは言う。けれど、それが何の尾根のことだったのか、覚えている者はもういない。
町の東には、背の高い白い塔が立っている。表面には継ぎ目ひとつなく、どれほど風雨にさらされても、汚れも苔もつかない。町の人々はそれを「白の塔」と呼び、塔の近くほどマナが濃く、魔法がよく効くことを知っていた。だから町の家々は、塔を中心に、同心円を描くように並んでいる。
町の西には、森がある。
その奥には、崩れかけた灰色の建物が、半ば土に埋もれて眠っている。冒険者たちは、そこを「霧の廃墟」と呼んでいた。中に入った者のうち、戻ってきたのは半分ほど。戻ってきた者も、中で何を見たのかを、あまり話したがらなかった。
ホワリッジの冒険者ギルドは、町の中央広場に面した、二階建ての石造りの建物だった。
一階は酒場を兼ねている。朝から晩まで、鎧の擦れる音と、ジョッキのぶつかる音と、誰かの武勇伝が絶えない。壁一面に張り出された依頼書。〈森狼の群れ討伐 報酬銀貨十二枚〉〈薬草採集 マナ濃度六十以上の区域にて〉〈ダンジョン「濃霧草原」周辺の廃墟調査 要・上級冒険者 報酬応相談〉。
カウンターの奥では、片目に古傷のある老ギルドマスターのボルグが、いつものように帳簿をつけていた。
その朝も、ギルドは賑わっていた。
暖炉の前の長椅子では、赤毛の剣士が、昨日倒した大猪の自慢話をしている。窓際の席では、とんがり帽子の魔法使いが、指先に小さな炎を灯して、パイプに火をつけている。炎はふわりと宙に浮き、くるくると回ってから、ぱっと消えた。
天井から吊るされたマナ灯が、柔らかな金色の光を投げかけていた。
ギルドの裏手には、小さな中庭がある。
酒樽が積まれ、薪が並び、冒険者たちの馬が繋がれている、雑然とした場所だ。
その朝、薪の山の陰に、四人の子どもが身を寄せ合って座っていた。
ギルドの給仕係の娘のリナ。鍛冶屋の双子のトムとティム。それから、つい先月この町に越してきたばかりの、パン屋の息子のエミル。
まだ朝早い時間だった。空は白んでいたけれど、太陽はまだ森の向こうに隠れている。
「ねえ、エミルは知らないでしょ」
リナが、声をひそめて言った。
「ホワリッジの、いちばん怖いお話」
エミルは、首を横に振った。
双子が、顔を見合わせて、にやりと笑った。
「教えてあげよっか」
「でも、夜におしっこ行けなくなっても知らないよ」
「行けるもん」エミルは、少しむっとした顔をした。
リナは、薪の山の向こうを、ちらりと覗いた。大人が誰も見ていないことを確かめてから、膝を抱えて、身を乗り出した。
「あのね。霧の朝にはね、ニタニタおじさんが出るの」
「ニタニタおじさん?」
「真っ赤な帽子をかぶってて、真っ黄色の服を着てて、お髭がぼうぼうで、ずうっとニタニタ笑ってるおじさん」
トムが、両手で自分の口の端を引っ張って、思いきり横に広げてみせた。
「こーんな顔」
ティムが、ぷっと吹き出した。
「でね」リナは、かまわず続けた。「おじさんは、塀の上から、ぴょこぴょこ覗いてくるの。こうやって」
彼女は、膝を曲げたり伸ばしたりして、体を上下に揺らしてみせた。ぴょこ。ぴょこ。ぴょこ。
「それで、目が合ったらね、こう言うの」
リナは、急に声を低くした。
「『いっしょに、あそぼうねっ♡』って」
エミルの肩が、びくりと跳ねた。
「それで、遊んだらどうなるの」
「遊んじゃだめなんだよ」ティムが真剣な顔で言った。「おじさんの遊びはね、ぜんぶ、ひどい遊びなんだ」
「かくれんぼとか?」
「ううん」
双子が、声を揃えた。
「ひき肉ごっこ」
エミルは、ごくりと唾を飲んだ。
「ひき肉、ごっこ……」
「大きな鉈を持っててね」トムが、両手で何かを振り上げる真似をした。「それで、とんとんとんとん、ってするの。それで最後に、こねこねして、肉団子にしちゃうの」
「肉団子……」
「それで、お手玉して遊ぶんだって」
リナが、声を小さくした。
「それとね。霧の朝には、もうひとり出るの」
「もうひとり?」
「白いお姉さん」
風が吹いて、薪の山の上の枯れ葉が、かさりと鳴った。四人とも、思わず身をすくめた。
「真っ白な服を着た、背の高いお姉さんなの。霧の中を、ゆっくりゆっくり歩いてるの」
「優しいお姉さん?」
「ううん。お姉さんにはね、顔がないの」
リナは、自分の顔の前に、両手で丸を作った。
「顔のとこにね、真っ黒な、おっきな穴が空いてるの。目も、鼻も、口もなくて、ただ、まっくろな穴だけ」
エミルは、口を半分開けたまま、固まっていた。
「お姉さんは、ずうっと何かを探してるんだって」
「何を?」
「わかんない。でも、近くを通ったら、こう聞かれるの」
リナは、今度は声を細く、震わせた。
「『わたしの……かばん……しりませんか……』」
「それでね、それでね」
トムが、我慢できないというように身を乗り出した。
「白いお姉さんは、昔、ニタニタおじさんに会っちゃった人なんだよ」
「えっ」
「ニタニタおじさんに会ったら、白いお姉さんみたいに、顔を肉団子にされちゃうんだって!」
「だから、お姉さんの顔には穴が空いてるんだ!」ティムが、勝ち誇ったように付け加えた。
エミルの顔が、さあっと青くなった。
「だから」
リナは、両手を腰に当てて、お姉さんぶった口調で言った。
「霧の日の朝は、外に出たらダメなんだよ!」
「こらぁっ!」
中庭に、太い声が響いた。
四人は、飛び上がった。
薪の山の向こうから、ギルドマスターのボルグが、腕を組んで見下ろしていた。片目の古傷が、朝の光の中で白く光っている。
「朝っぱらから、こんなとこで何してる。リナ、お前は給仕の手伝いだろうが」
「ご、ごめんなさーい!」
リナが、慌てて立ち上がった。双子も、エミルの腕を引っ張って、一緒に逃げ出そうとする。
そのとき、ギルドの受付嬢が慌ててボルグのもとへ駆け寄り、耳打ちをする。
そして、ボルグは静かに頷き、子供たちへ声を掛ける。
「待て」
ボルグの声に、四人は凍りついた。
老ギルドマスターは、子どもたちの顔をひとりずつ眺めた。それから、ふっと視線を上げて、中庭の向こう、西の森の方角を見た。
森の上に、薄く、白いものがかかり始めていた。
ボルグは、低い声で言った。
「お前たち、今日はもう、家に帰れ。外に出るんじゃないぞ。霧が近づいてくる」
「ボルグさんまで、ニタニタおじさん信じてるの?」
「さあな。だが、あの霧の中には何かがいる。何人も消えているんだ」
子どもたちは不満を言いつつ、それぞれの家へ駆けていく。
ボルグは、中庭の戸口に立ったまま、西の森を見ていた。
霧が、濃くなっていく。森の木々の輪郭が、ひとつ、またひとつと、白の中に溶けていく。やがて、霧は森の縁を越え、町外れの畑を呑み込み、ゆっくりと町の方へ広がり始めた。
広場の向こうで、誰かが窓の鎧戸を閉める音がした。一軒、また一軒と、それが続いていく。ギルドの酒場の喧騒も、いつの間にか静かになっていた。
冒険者たちも、知っているのだ。
ボルグは、中庭の戸を閉めようと、手を伸ばした。
そのとき、霧の向こう、町外れの古い石塀の上に、何かが見えた気がした。
赤いものが、ひとつ。
ぴょこり、と。
上下に。
そして、そのすぐ隣の霧の中に、白く、細長い影が、じっと立っていた。
顔のあるはずの場所に、朝の光さえ届かない、黒いものを抱えて。
ボルグは、戸を閉めた。
閂を下ろした。
背中を戸に預け、しばらく、目を閉じていた。
霧の向こうで、かすかな声がした。
楽しげな男の声。
それに重なるように、細く、震える女の声。
けれど、閂の下りた戸の内側には、もう、何も聞こえなかった。
ホワリッジの町は、その朝も、霧が晴れるまで、静かに眠っていた。
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ギルドのカウンターの奥の壁には、何十年も前から外されることのない、一枚の古い依頼書が貼られていた。紙は黄ばみ、角は擦り切れ、インクはかすれかけている。
〈ダンジョン「濃霧草原」接近時の依頼受付は、これを停止する〉




