観覧席
その部屋は、壁という壁がモニターで埋め尽くされていた。
アーガスノルン・コーポレーション本社統合管制室。百を超える画面が、天井近くまで格子状に並び、それぞれが青白い光を放っている。照明は落とされ、部屋を照らしているのは、その光だけだった。
正面の最も大きな画面に、霧の中の搬出口が映っていた。
黒い軍用車。黒いコートの男。その前で立ち尽くす、白衣の女。
男が振り向く。ニタニタと笑う顔が、画面いっぱいに映し出される。
大鉈が振り上げられる。
管制室の中央、一段高い位置に置かれた二つの椅子に、ヴィクトリア・ハルトマンとダニエル・アシュクロフトが座っていた。
ハルトマンは、脚を組み、肘掛けに頬杖をついていた。その表情は、退屈な芝居を眺める観客のものだった。
「なに? あの気持ち悪い男は」
隣のアシュクロフトが、手にしたコーヒーのカップを口元から下ろした。
「ニタニタおじさん、ですよ。このあたりに古くから伝わる都市伝説です」
「都市伝説?」
「ええ。霧の深い朝に現れて、子どもでも大人でも、目をつけた相手を『遊ぼう』と誘うんです。赤いニット帽に、黄色いセーター。いつもニタニタ笑っていて、遊びと称して、ひどく残酷なことをしてくる。かくれんぼだの、鬼ごっこだの、それから、ひき肉ごっこだの」
画面の中で、大鉈が振り下ろされた。
アシュクロフトは、ちらりとそれに目をやって、またカップを口へ運んだ。
「この地方の子どもは、霧の朝には外に出るな、ってしつけられるそうですよ。ニタニタおじさんに見つかるから、って」
ハルトマンは、横目でアシュクロフトを見た。
「詳しいわね」
「こう見えて、都市伝説には目がないもので」
アシュクロフトは、少し照れたように肩をすくめた。それから、正面の画面を見上げて、首をかしげた。
「にしても、あれ、本当にいるんですか?」
ハルトマンは、小さく鼻で笑った。
「わかるわけないじゃない」
彼女は頬杖をついたまま、画面の中の赤いニット帽を、つまらなそうに眺めた。
「人の目どころか、カメラもマイクも、精密分析機器の電気信号ですら、アイソフェミアは改竄可能なのよ。ましてやあれは、私たちの制御を外れたアイソフェミアよ。この映像が本物かどうかなんて、誰にも保証できないわ」
画面の中で、霧が渦を巻いていた。
「あの博士の頭の中で起きている幻覚が、そのまま映像になっているのかもしれない。あるいは、本当にあそこに、あの男が立っているのかもしれない。どちらでも、結果は同じよ」
彼女は、組んでいた脚を組み替えた。
「気になるなら、あなた、行ってくればいいじゃない」
アシュクロフトは、コーヒーにむせかけた。
「勘弁してくださいよ」
「あら、都市伝説には目がないんでしょう?」
「見るのと会うのは別物です」
ハルトマンは、初めて、ほんのわずかに口元を緩めた。
二人の背後、一段低い位置にある制御卓の前で、保安部長のグレゴール・ヴァイスが、黙々と別の画面を確認していた。
彼の前には、六つの小さなモニターが並んでいる。いずれも、リアルタイムの映像ではない。すでに記録され、保存された映像だった。
彼は、一つ目のモニターの映像を再生した。
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〈ホワイトリッジ研究所 地下十一階 仮眠室 二月六日 午前二時十四分〉
薄暗い部屋。簡易ベッドの上で、毛布にくるまったミレイユが眠っている。
天井の隅の換気口から、白い霧が、ゆっくりと流れ出してきた。音もなく、床を這うように広がり、ベッドの脚を伝い、毛布の上を覆っていく。カメラの画面全体が白い霧で覆われ、少し経つと霧が晴れてきた。
ミレイユは、身じろぎひとつしない。
ヴァイスは、早送りのつまみを回した。
〈午前三時二分〉
ミレイユが、起き上がった。
ゆっくりと。毛布を払いのけ、ベッドの端に腰かけ、立ち上がる。目は開いている。けれど、その目は何も見ていない。焦点の合わない、ガラス玉のような目。
彼女は、ベッドの脇に置いてあった鞄を、手探りで掴んだ。
それから、靴を履いたまま、扉の方へ歩き出した。両腕をだらりと垂らし、鞄を引きずるように提げ、一歩、また一歩と。
夢遊病者のように。
扉が開き、彼女は廊下へ消えた。
ヴァイスは、二つ目のモニターに切り替えた。
〈研究所正面ゲート 午前三時十一分〉
白衣の女が、ゲートを通り抜けていく。警備員は、詰所の中で、椅子にもたれて眠っていた。その口元にも、薄く霧がかかっていた。
ヴァイスは、三つ目のモニターを再生した。
〈研究所周辺住宅地 第四区画 二月六日 午前四時三十分〉
夜明け前の、静まり返った住宅街。街灯の下に、手入れの行き届いた芝生の庭が並んでいる。
その芝生の中から、小さな円筒が、いくつもせり上がってきた。
スプリンクラーだった。
ただし、噴き出したのは水ではなかった。
白い霧。
一軒、また一軒と、庭ごとにスプリンクラーが作動し、霧を吐き出していく。霧は芝生の上を這い、塀を越え、道路へ流れ出し、やがて隣の区画の霧と混ざり合って、住宅地全体を、乳白色の海に沈めていった。
窓に明かりの灯った家は、一軒もなかった。
ヴァイスは、四つ目のモニターに目を移した。
〈第四区画 十七番地前 午前五時五十一分〉
霧に覆われた通り。灰色のブロック塀。
画面の中央で、霧が、渦を巻き始めた。
ゆっくりと。それから、少しずつ速く。まるで排水口に吸い込まれていく水のように、一点に向かって、霧が集まっていく。
渦の中心が、濃くなった。
白が、灰色になり、灰色が、黒ずんだ何かになった。
そこに、色が、にじみ出した。
まず、赤。頭の高さに、丸く。
それから、黄色。肩から胴にかけて、四角く。
霧の中から、人の形をしたものが、浮かび上がってきた。輪郭が少しずつはっきりしていく。無精髭の生えた顎。吊り上がった口の端。細められた目。
ニタニタと笑う、中年の男の顔。
男は、完全に形をとると、まるで今目覚めたように、首をこきりと鳴らした。
そして、塀の向こうへ屈み込んだ。
膝を曲げ、伸ばし、曲げ、伸ばし。
ぴょこ。ぴょこ。ぴょこ。
画面の端から、白衣の女が、鞄を抱えて歩いてくるところだった。
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ヴァイスは、静かに映像を止めた。
それから、椅子を回し、一段上の二人に向かって言った。
「記録の確認、完了しました。散布から発生までの経過、すべて記録に残っています」
ハルトマンは、振り返らなかった。
正面の大画面では、霧がゆっくりと搬出口を覆い隠そうとしていた。黒い軍用車も、黒いコートの男も、白衣の女も、もう霧の向こうの、ぼんやりとした影でしかなかった。
「鞄は」
ハルトマンが、短く尋ねた。
ヴァイスは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「現在、確認できません。映像では、最後まで博士が抱えていましたが……」
「回収班を出しなさい。防護は最大で。アンチマナを先に撒いてから入らせて」
「承知しました」
ヴァイスが立ち上がり、管制室を出ていく。
扉が閉まる音のあとで、アシュクロフトが、ぽつりと言った。
「……あの男、映像の中では、霧から生まれてましたね」
「そう見えたわね」
「都市伝説が、本物になったってことですか。それとも、都市伝説の方が、最初から本物だったってことですか」
ハルトマンは、しばらく答えなかった。
それから、霧に覆われた画面を見つめたまま、静かに言った。
「どちらにしても、もう私たちには、確かめようがないわ」
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正面の大画面で、霧が、ゆっくりと薄くなり始めていた。
搬出口の照明の下に、ぼんやりとした影が浮かび上がる。
赤いニット帽。黄色いセーター。
ニタニタおじさんは、そこにいた。
コンクリートの床に、ちょこんと胡座をかいて座っている。大鉈は、膝の横に無造作に転がっていた。
男は、ニコニコしていた。
さっきまでの、耳まで裂けたようなニタニタではない。子どもが新しいおもちゃをもらったときのような、満ち足りた、無邪気な笑顔。
その両手の上で、何かが、跳ねていた。
ぽん。ぽん。ぽん。
丸いものが三つ。
男は、それを器用に放り上げ、受け止め、また放り上げた。一つ目が落ちてくる前に二つ目を投げ、二つ目を受け止めながら三つ目を宙へ送る。
赤い肉の塊だった。
「ひとつ、ふたつ、みっつ♡」
男は、調子はずれの歌を口ずさんでいた。
「じょうずに、こねこね、できたかな♡」
画面の端から、黄色いものが現れた。
一つではなかった。二つ、三つ、五つ、十を超える数。
だぶだぶの、黄色い防護衣だった。頭からつま先まで、継ぎ目のない分厚い生地に覆われ、顔の部分だけが、黒いガラスの面体になっている。背中には、銀色の円筒タンク。そこから伸びた太いホースの先を、両手で前に構えている。
回収班だった。
彼らは、横一列に並んで、霧の残る搬出口へ、ゆっくりと進んでいた。足並みは揃っていた。誰も、喋らなかった。
先頭の一人が、ホースの先を持ち上げた。
透明な液体が、細かい霧になって噴き出した。
それが合図だったように、隣の一人も、その隣の一人も、次々と散布を始める。十数本のホースから放たれた霧が、扇のように広がり、重なり合い、薄れかけていた白い霧の中へ、静かに染み込んでいく。
アンチ・アイソフェミアだった。
ニタニタおじさんの手が、止まった。
男は、顔を上げた。
黄色い防護衣の列を見た。
その目が、まんまるに見開かれた。口が、「お」の字に開いた。
心の底から、楽しそうに驚いていた。
驚いた顔のまま、口の端だけが、ゆっくりと、また耳の方へ吊り上がっていく。
「おしまいの時間かなっ♡」
アンチ・アイソフェミアの霧が、男の足元に届いた。
男の体の輪郭が、ほつれた。
糸がほどけるように。濡れた絵の具が水に溶けるように。真っ赤なニット帽の縁がにじみ、真っ黄色のセーターの色が霧の中へ流れ出していく。それでも男は、笑っていた。驚いた顔で、楽しそうに、ニタニタと。
「またあそぼうねっ♡」
最後に残ったのは、その声だけだった。
床の大鉈も、消えた。
そこにはもう、何もいなかった。
アンチ・アイソフェミアの霧が、搬出口を満たしていく。
残っていた白い霧が、一気に晴れていった。
夜明けの光が、ようやく、まっすぐに地面に届いた。
濡れたコンクリートの床。半分開いたシャッター。焦げた匂いの残る空気。
そして、何もなかった。
黒い軍用車は、どこにもなかった。タイヤの跡さえ、残っていなかった。
黒いコートの男も、いなかった。
床に、血の跡ひとつ、なかった。
鞄も、なかった。
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管制室は、静まり返っていた。
アシュクロフトは、しばらく、空っぽになった搬出口の映像を見つめていた。
「鞄がありません。博士は、最後まで抱えていたはずなのに」
そのとき、制御卓の通信機が鳴った。保安部長ヴァイスの声だった。
「管制室、聞こえますか。地下十一階、仮眠室の回収班から報告です。第三モニターに映像を回します」
右上の小さな画面が、切り替わった。
ホワイトリッジ研究所、地下十一階、仮眠室。
あの、ミレイユが眠っていた部屋だった。
簡易ベッドの上に、毛布が乱れたまま残されている。換気口の格子には、うっすらと白い結露がこびりついていた。
黄色い防護衣の作業員が二人、部屋の中にいた。一人がアンチ・アイソフェミアを散布し、もう一人が、ゆっくりとベッドの周りを調べている。
作業員が、屈み込んだ。
ベッドの下。
手袋をはめた手が、奥へ伸びる。何かを掴み、引き出す。
古い、革の鞄だった。
作業員は、それを床に置き、留め金を外した。中から、着替えと、何冊かの本。その下から、分厚い手袋。そして、金属の円筒容器。
蓋が開けられる。
硝子の小瓶が、三本。
一本も欠けることなく、整然と並んでいた。
記録媒体も、手袋の中に、そのままあった。
アシュクロフトは、長い間、その映像を見つめていた。
それから、ゆっくりと、口を開いた。
「これは、つまり」
彼は、言葉を選ぶように、一度区切った。
「そもそも、ミレイユ博士は、鞄を持ち出していなかった、と」
「そういうことね」
「ですが、さっきの記録映像では、博士は仮眠室で鞄を掴んで、それを提げて出ていきました。ゲートを通るときも、確かに……」
「その映像も、暴走状態のアイソフェミアの霧の中で撮られたものよ」
ハルトマンは、静かに言った。
「霧の中では、カメラも、記録装置も、もう私たちの味方じゃない。映像が鞄を映していたからといって、そこに鞄があったことにはならないわ」
アシュクロフトは、黙り込んだ。
正面の大画面には、まだ空っぽの搬出口が映っていた。夜明けの光が、濡れた床を白く照らしている。
「彼女の認識が、ずらされていたのよ」
ハルトマンは、画面の中の、ベッドの下から出てきた鞄を見つめながら言った。
「ミレイユ博士は、自分が鞄を持っていると信じていた。家で目を覚ましたときも、あの男から逃げているときも、篠宮の顔をした男に駆け寄ったときも。ずっと、胸に抱きしめているつもりだった」
彼女は、少しだけ目を細めた。
「おそらく、アイソフェミアが、博士の脳を覗いたのね。そして、あの鞄の中にあるものを、本能的に危険なものだと判断した」
「危険……アンチ・アイソフェミアを、ですか」
「当然でしょう。自分たちを一粒残らず消し去る薬よ。暴走状態のアイソフェミアがどれほど狂っていても、自己保存の機能だけは、誰よりも強く働いている。」
ハルトマンは、肘掛けに指を置き、とん、とん、と二度叩いた。
「だから、鞄を彼女から引き離した。けれど、彼女には気づかせなかった。気づけば、どこかで探しに戻るかもしれない。鞄を持っていると思い込ませたまま、霧の中へ誘い出したのよ。鞄の届かない場所へ」
アシュクロフトは、冷めきったコーヒーのカップを見下ろした。中身は、ほとんど減っていなかった。
彼は、小さな声で言った。
「あれは、考えていた。博士の頭の中を覗いて、何を怖がるべきか判断して、どうすれば遠ざけられるか、計画を立てていた。しかも、この土地の都市伝説の姿まで借りて」
「ええ」
ハルトマンは、しばらく黙っていた。
それから、椅子から立ち上がり、管制室の出口へ向かって歩き出した。
「アシュクロフト」
扉の前で、彼女は振り返らずに言った。
「三日後の国連の声明、予定通りに進めるわ。ミレイユ博士の件で、計画が少しでも遅れることのないように」
扉が開き、閉まった。




