霧の朝
目を開けると、見慣れた天井があった。
木目の浮いた、少し黄ばんだ天井板。窓際でかすかに揺れる、色褪せた水色のカーテン。
ミレイユは、しばらくそれが何なのか分からなかった。
自宅の寝室だった。
研究所から歩いて十五分の、古い二階建ての借家。この三か月、ほとんど帰っていない家。
彼女は跳ね起きた。
「……どうして」
昨夜の記憶を手繰る。研究室で鞄を閉めた。仮眠室へ行った。硬い簡易ベッドに横になり、毛布をかぶった。そこまでは、はっきりと覚えている。
なのに、今、彼女は自分のベッドの上にいた。白衣のまま。靴も履いたまま。シーツには、足の形に泥がこびりついていた。
枕元の時計を見る。
午前五時四十七分。
秒針が、動いていなかった。
鞄は、ベッドの脇の床に置かれていた。
ミレイユは飛びつくように留め金を外し、着替えと本をかき分けた。底に、金属の円筒の冷たい感触。蓋を開けると、硝子の小瓶が三本、ちゃんと並んでいた。記録媒体も、手袋の中にあった。
息を吐いた。胸の奥で、心臓がうるさく鳴っていた。
誰かが、ここへ運んだのか。それとも、自分で歩いて帰ってきたのか。覚えていないだけで。
考えても答えは出なかった。今はそれより、やるべきことがある。
搬出は、今夜だ。それまでに研究所へ戻り、何事もなかったように一日を過ごさなければならない。
彼女は鞄を胸に抱え、寝室を出た。
リビングは、三か月前に出ていったときのままだった。
テーブルの上の、飲みかけのまま乾いたマグカップ。ソファに投げ出された膝掛け。壁のカレンダーは、十一月のまま止まっている。
ただひとつ、違うことがあった。
静かすぎた。
冷蔵庫の唸る音がしない。壁の時計の音もしない。窓の外を通る車の音も、遠くの犬の声も、何ひとつ聞こえない。
まるで、家ごと、厚い綿の中に包まれてしまったようだった。
ミレイユは、玄関の扉に手をかけた。
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外は、霧だった。
夜明けの薄明かりが、乳白色の霧に溶けて、街全体をぼんやりと淡く光らせている。向かいの家の屋根が、かろうじて輪郭だけ見えた。その先は、何もない。白い壁が、ゆるやかにうごめいているだけだった。
吐く息が白い。けれど、寒くはなかった。
二月のカナダ北部の朝なのに。
ミレイユは鞄を抱え直し、研究所の方角へ歩き出した。この道は何百回も通った。目を閉じていても辿れる。角を二つ曲がり、林を抜ければ、研究所の搬入口が見えるはずだ。
自分の足音だけが、妙に大きく響いた。
一歩。また一歩。
ふと、霧の中で、自分の足音のあとに、もうひとつ、別の音が重なった気がした。
彼女は立ち止まった。
音も、止まった。
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視線を、感じた。
首筋に、冷たい指を這わせられたような感覚。
ミレイユは、はっと振り返った。
霧の中に、隣家の塀があった。灰色のブロックを積んだ、腰の高さほどの塀。その向こうに、小さな庭と、カーテンを閉ざした家。
塀の上で、何かが動いていた。
ぴょこ。
ぴょこ。
上下に。規則正しく。
真っ赤な何かが、塀の向こうから現れては、また沈む。
ぴょこ。ぴょこ。ぴょこ。
霧がわずかに流れて、その正体が見えた。
ニット帽だった。
燃えるような、真っ赤なニット帽。その下に、顔があった。四十代か五十代の、中年の男の顔。頬から顎にかけて、黒々とした無精髭がまだらに生えている。
男は、笑っていた。
口の両端を、耳に届きそうなほど引き上げて。目を細めて。ニタニタと。
その顔のまま、体を、リズミカルに上下させていた。塀の向こうで膝を曲げ、伸ばし、曲げ、伸ばし。そのたびに、真っ黄色のセーターの肩が、塀の上に見え隠れする。
ぴょこ。ぴょこ。ぴょこ。
拍子は、少しも乱れなかった。機械のように正確だった。
ミレイユは、声も出せずに立ち尽くしていた。
見覚えのない顔だった。この通りに三年住んでいて、一度も見たことがない。
男の目が、ぴたりと、ミレイユを捉えた。
上下の動きが、止まった。
「ミ・レ・イ・ユ・ちゃんっ♡」
低音の粘り気のある声がした。
「ニタニタおじさんと、いっしょにあそぼうねっ!」
男は、両腕をまっすぐ前に突き出した。
肘も、指も、少しも曲げずに。棒のように。
そのまま、塀に足をかけた。
ずるり、と。
体を折り曲げることなく、まるで見えない糸に引き上げられるように、男は塀の上に立ち、そして、こちら側へ降りてきた。
着地の音が、しなかった。
ミレイユの喉から、空気が漏れた。
「ひっ……!」
悲鳴は、霧に吸い込まれて、どこにも届かなかった。
男は、近づいてきた。
ゆっくりと。腕を前に突き出したまま。足だけを、一歩、また一歩と、前へ運ぶ。上半身は少しも揺れない。顔は、ニタニタと笑ったまま、少しも形を変えない。
真っ赤なニット帽。真っ黄色のセーター。灰色の霧の中で、その二色だけが、異様に鮮やかだった。まるで、そこだけ色を塗り忘れた絵の中に、誰かが絵の具をぶちまけたように。
ミレイユは、後ずさった。
鞄を胸に抱きしめたまま。背中が、何かにぶつかる。電柱だった。逃げ場がない。
「ニタニタおじさんは、楽しいことが大好きだぞっ♡」
男は、楽しそうに言った。
あと五メートル。
「今日はねえ」
あと四メートル。
「ひき肉ごっこで、あそぼうねっ」
男は、突き出していた右腕を、ゆっくりと下ろした。
そして、その手を、自分の背中へ回した。
ぐちゅ、と、湿った音がした。
男の手首が、セーターの上から、背中の中へ沈んでいった。布ではない。肉の中へ。男は笑ったまま、まるで鞄の中を探るように、自分の背中の中で手をかき回した。
黄色いセーターの背中に、じわりと、赤黒い染みが広がっていく。
ミレイユは、目を逸らすことができなかった。
男の手が、何かを掴んだ。
ずるずると、引き抜く。
背中から、長い、鈍く光るものが現れた。血と、何か分からないものに濡れた、刃渡り六十センチはあろうかという、肉厚の大鉈だった。
赤い雫が、刃先から、一滴、また一滴と、霧の中へ落ちていく。
男は、大鉈を高々と掲げた。
ニタニタと、笑ったまま。
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ミレイユは、走った。
考えるより先に、足が動いていた。鞄を胸に抱きしめ、霧の中を、研究所の方角へ。濡れたアスファルトを蹴るたびに、靴底が滑りそうになる。
背後で、音がした。
ぱたぱたぱたぱた。
軽い、弾むような足音だった。
ミレイユは、走りながら振り返った。
そして、見てしまった。
男が、走ってきていた。
大鉈を片手に掲げ、上半身はまっすぐに立てたまま。顔は、相変わらずニタニタと笑ったまま走っている。
両足を真横に振りながら愉快に。
「なんなのよ……!」
叫んだ声は、自分でも驚くほど裏返っていた。
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距離が、縮まっていた。
ミレイユは、走りながら鞄の口に手を突っ込んだ。中の書類等をかき分け、ようやく、底の方にある硬い感触を掴む。
小型の拳銃だった。研究所の保安規定で、幹部研究員に支給されている護身用のもの。撃ったことは、射撃訓練の一度きりしかない。
立ち止まり、振り返る。
両手で構える。霧の向こうに、赤と黄色。
引き金を引いた。
乾いた破裂音。腕に、反動が跳ね返る。
男の手の中で、大鉈が閃いた。
きん、と。
澄んだ金属音が響いた。
男の顔の前で、何か小さなものが弾け、地面に落ちた。ころころと転がって、ミレイユの足元近くで止まる。
潰れた弾丸だった。
男は、大鉈を振り抜いた格好のまま、ニタニタと笑っていた。
そして、人差し指を立て、ちっちっ、と左右に振った。
「ニタニタおじさんは、ズルが大嫌いだぞっ♡」
その口が、開いた。
さっきよりも、もっと大きく。頬の肉が引き裂けるのではないかと思うほど、口角が耳へ向かって吊り上がっていく。歯が見えた。並びすぎるほど、たくさんの歯が。
ニタニタが、深くなり、足が速くなった。
ぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱた。
ミレイユは、また走り出した。
肺が焼けるようだった。足がもつれる。それでも止まれなかった。背後の足音は、もう、すぐそこまで来ている。
林の小道を抜ける。
霧の向こうに、灰色の金網が見えた。研究所の敷地を囲むフェンス。裏手の通用門。
ミレイユは、白衣の胸ポケットからカードキーを引き抜き、読み取り機に叩きつけた。
小さな電子音。緑のランプ。
扉を押し開け、中へ転がり込む。背中で扉を閉める。かちり、と錠の落ちる音。
荒い息を吐きながら、顔を上げた。
裏手の資材置き場だった。コンクリートの広場に、白く塗られた円筒形のタンクが、いくつも並んでいる。表面には、赤い文字で〈高圧ガス 火気厳禁〉。
フェンスが、きしんだ。
振り返る。
金網に、男がしがみついていた。
大鉈を口にくわえ、両手両足を金網に絡ませ、まるで蜘蛛のように、するすると登ってくる。ニタニタと笑ったまま。くわえた刃の両端から、涎とも血ともつかないものが垂れている。
フェンスの頂上で、男は大鉈を口から手に持ち替えた。
「来ないで!」
ミレイユは、銃を構えた。
男ではなく、その真下。フェンスのすぐ内側に並んだ、白いタンクのひとつに。
引き金を引いた。
一発。外れた。
二発。金属の甲高い音。
三発目が、タンクの胴を貫いた。
しゅう、と、細い白煙が噴き出す。
一瞬の、静寂。
そして、世界が白くなった。
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轟音が、霧を押し潰した。
熱風が、ミレイユの体を地面に叩きつける。鞄を抱えたまま転がり、コンクリートに肩を打ちつける。耳の奥で、甲高い音が鳴り続けていた。
炎の柱が、隣のタンクを呑み込み、さらにその隣を呑み込む。連鎖する爆発。オレンジ色の光が、乳白色の霧を内側から焼いていく。
その光の中に、ミレイユは見た。
フェンスの上の男が目を丸くし、口を「お」の字に開けて、わざとらしい愉快な驚きの顔をしたまま、炎の中へ呑み込まれて消えた。
白衣の袖が焦げ、膝から血が滲んでいる。それでも鞄だけは、胸から離していなかった。
背後では、まだ炎が燃えていた。煙と霧が混ざり合い、空は灰色に濁っている。
男の姿は、どこにもなかった。
ミレイユは、よろよろと歩き出した。資材置き場を抜け、建物の角を回る。足が鉛のように重い。何度も膝が崩れそうになる。
その先に、搬出口があった。
大きなシャッターが半分ほど開き、その前に、一台の車が止まっていた。
黒い、軍用の四輪駆動車。窓には濃い色のフィルム。エンジンはかかったまま、排気管から白い煙を細く吐いている。
運転席の扉が、開いた。
降りてきたのは、背の高い男だった。
黒い、丈の長いコート。襟を立て、霧の中にすらりと立つ後ろ姿。
ミレイユの胸の奥で、記憶が、ひとつ灯った。
学会の、人のまばらな廊下。窓から差し込む午後の光。黒いコートの裾。少し遠慮がちに、けれどまっすぐにこちらを見た、若い研究者の背中。
――祖父は最後まで、あなたの会社の空気を、怖がっていました。
同じだった。
あのときと、まったく同じ姿だった。
「篠宮さん……!」
声が、震えた。張り詰めていたものが、一度に溶け出していく。
「篠宮さん、もう来てくれたんですか!」
ミレイユは駆け寄った。足の痛みも、肩の痛みも、もうどうでもよかった。助かった。間に合った。これで、全部――
男は、背を向けたまま、静かに答えた。
「ええ」
穏やかな、低い声だった。
「あなたに会うために、急いできたんですよ」
そう言って、男は、ゆっくりと振り向いた。
無精髭が、あった。
頬から顎にかけて、黒々と、まだらに。
口の両端が、耳に届くほど吊り上がっていた。
目が、細く、ニタニタと笑っていた。
黒いコートの襟の内側から、真っ黄色のセーターの襟が覗いていた。
焦げた匂いが、した。
「ミ・レ・イ・ユ・ちゃんっ♡」
ミレイユの足が、止まった。
止まりきれずに、男のすぐ目の前で、つんのめるように立ち尽くした。
喉の奥から、声が漏れる。
「いやああああっ!」
男は、コートの背中に手を回した。
ぐちゅり、と、あの湿った音。
引き抜かれた大鉈が、搬出口の照明を受けて、鈍く光った。刃先から、赤い雫が滴る。
「ひき肉の刑だぞっ♡」
男は、楽しそうに、大鉈を振り上げた。
ミレイユは、鞄を抱きしめた。
刃が、振り下ろされた。




