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アイソフェミア ―第4次産業革命が魔法と呼ばれた世界―  作者: ArgasNorn


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抵抗

二〇三七年二月五日、午前一時三十分。


ホワイトリッジ研究所、地下十一階、ソーン博士の個人研究室。


ミレイユは、研究室の扉に鍵をかけた。


それから、白衣のポケットから小さな噴霧器を取り出した。試験区画から持ち出した、アンチ・アイソフェミアの試作品。


天井に向けて、三回。部屋の四隅に、一回ずつ。


手持ちの電子デバイスに表示されたアイソフェミア濃度と通信用の電磁波の強度を示す数字が、ゆっくりとゼロに落ちていく。


これで、この部屋の空気の中に、アイソフェミアは一粒もいない。


この会社に二十年いて、彼女が誰よりもよく知っていることがあった。アーガスノルン社の監視は、カメラでも盗聴器でもない。空気そのものだ。社内のどこにいても、漂うアイソフェミアが、人の動きも、声も、端末の画面さえも、信号に乗せて本社へ送り返している。


だから、この部屋は今、この研究所でただ一つ、誰にも見られていない場所だった。


少なくとも、ミレイユはそう信じていた。


彼女は机の引き出しの奥から、古いノートパソコンを取り出した。十五年前の型。社の管理番号も、無線の部品も、すべて自分の手で外してある。


背面に、細い銅線を一本つなぐ。研究所の建設時に敷かれ、図面から消されたまま放置されていた、旧式の地上回線。三年前、配線の点検中に偶然見つけたものだった。


画面に、文字だけの送信画面が浮かぶ。


宛先は、垓亜重工・相模原研究所。


受取人の名前は、篠宮 透。


かつて、垓亜重工の最高技術責任者であった篠宮遼の、孫にあたる男だった。昨年の秋に祖父を亡くしたあと、彼は一度だけ、学会の廊下でミレイユに声をかけてきたことがある。


「祖父は最後まで、あなたの会社の空気を、怖がっていました」


あのとき、彼女は笑ってはぐらかした。今は、その言葉を、誰よりも理解できた。


ミレイユは、ゆっくりとキーを叩いた。


〈篠宮様


突然のご連絡をお許しください。アーガスノルン・コーポレーション、ホワイトリッジ研究所のミレイユ・ソーンです。


私たちは、アイソフェミアを完全に除去する試薬の開発に成功しました。「アンチ・アイソフェミア」と呼ばれています。この試薬を散布した空間では、制御下のものも、制御を失ったものも含め、アイソフェミアは一粒も残りません。人間が、本当の物理法則の中に立つことができます。


私は、この試薬が、汚染に苦しむ人々を救うために使われると信じていました。しかし、そうはなりませんでした。


私は、研究データの全てと、試薬のサンプルを持って、貴社へ移りたいと考えています。


二月八日の深夜、研究所の物資搬出に紛れて施設を出る予定です。受け入れの準備をお願いできないでしょうか。


このメールの返信は不要です。この回線は、一度しか使いません。


ミレイユ・ソーン〉


送信キーを押す前に、彼女は一度だけ目を閉じた。


それから、押した。


画面の隅で、小さな表示が「送信完了」に変わった。


彼女は銅線を外し、ノートパソコンを閉じた。


机の上に、金属製の小さな円筒容器を置く。中には、アンチ・アイソフェミアの原液を封じた硝子の小瓶が三本。その横に、親指ほどの大きさの記録媒体。十一年分の研究の、すべてがその中にある。


ミレイユは、それらを分厚い手袋と一緒に、古い革の鞄の底へ詰めた。上から、着替えと、何冊かの本を重ねる。


鞄の留め金を閉めたとき、ようやく、指の震えに気づいた。


彼女は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。


白い天井。四隅の換気口。照明。その脇の、火災報知器の小さな丸い蓋。


何も、おかしなところはなかった。


火災報知器の蓋の内側で、黒い小さなレンズが、彼女を見下ろしていた。


それは、この会社で使われている他のどの装置とも違っていた。無線の部品はひとつもない。社の回線にもつながっていない。電源は内蔵の電池だけ。撮った映像は、内部の小さな記録媒体に、ただ黙々と書き込まれていくだけだった。


アイソフェミアを一切使っていない。だから、アンチ・アイソフェミアの霧の中でも、何の影響も受けずに動き続ける。


電波を出さないから、彼女がどれだけ念入りに部屋を調べても、どんな探知機にも反応しない。


それは、空気の目が届かなくなる場所に備えて、誰かが仕掛けた、もうひとつの目だった。


レンズの奥で、記録中を示す小さな赤い点が、ずっと灯り続けていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


同日、午前七時十五分。


研究所の保安部門の男が、定期点検の名目で、ソーン博士の研究室の前を通りかかった。


博士はもう、仮眠室へ戻っていた。


男は合鍵で扉を開け、脚立に上り、火災報知器の蓋を外した。中から、親指の先ほどの記録媒体を取り出し、新しいものと差し替える。


作業は、二分で終わった。


男は記録媒体を胸ポケットにしまい、研究室を出た。誰にも、何も告げずに。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


同日、午後九時。

本社管制室。

窓はなく天井の高い広大な部屋。壁の一つの面に大量に配置されたモニター群と多数のコンピュータ、そして配線。

そこに数名のオペレーターと数名の経営幹部がいた。


その部屋のモニターに、映像が映し出された。


天井に向けて噴霧器を構える女。古いノートパソコンを開き、背面に銅線をつなぐ女。


キーを叩く指。画面の文字までは読み取れない。けれど、宛先の欄の、漢字の並びだけは、はっきりと映っていた。


ヴィクトリア・ハルトマンは、映像を最後まで、表情ひとつ変えずに見ていた。


金属の円筒を鞄に詰める手元のところで、彼女は映像を止めた。


「アイソフェミアの目を盗む方法を、いちばんよく知っているのは、アイソフェミアを作った人間よ」


彼女は、隣に立つ保安部門の責任者に言った。


「だから私は、作った人間を、アイソフェミアでは見張らないことにしているの」


責任者が尋ねる。


「搬出予定は、二月八日の深夜です。いかがいたしますか」


ハルトマンは、しばらく、止まった画面の中のミレイユの顔を見つめていた。疲れ切った、けれど何かを決めた人間の顔だった。


「行かせなさい」


責任者が、わずかに眉を動かした。


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