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アイソフェミア ―第4次産業革命が魔法と呼ばれた世界―  作者: ArgasNorn


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18/24

アンチ・アイソフェミア

二〇三七年二月三日、午前四時十二分。


アーガスノルン・コーポレーション、カナダ北部・ホワイトリッジ研究所、地下十二階、第三試験区画。


ミレイユ・ソーン博士は、分厚いガラス越しに、空っぽの部屋を見つめていた。


縦横六メートルの立方体。白い壁、白い床、天井に埋め込まれた照明。部屋の中央には、金属の台が一つと、その上に置かれた小さな球体の振り子があるだけだ。


制御卓のモニターの一つでは、音を消したニュースが流れていた。欧州のどこかの町。夕暮れの広場。崩れた信号塔。画面の下を、兵士の行方不明者数を告げる字幕が流れていく。


ミレイユは、そのモニターの電源を切った。


「濃度、確認」


隣の席の若い研究員、オーウェンが計器を読み上げた。


「区画内アイソフェミア濃度、九十四。通常値です」


「散布を開始して」


天井の細いノズルから、霧が噴き出した。


色はない。音もほとんどない。ただ、部屋の照明がほんの一瞬、揺らいだように見えた。


「濃度、八十一。六十七。四十……」


オーウェンの声が、少しずつ上ずっていく。


「二十二。九。三……」


制御卓の上で、いくつもの警告灯が一斉に点灯した。部屋の中の計測装置が、次々と「測定不能」の表示を出していく。アイソフェミアが存在しなければ、分析装置に対する測定値の改ざんは行われなくなるのだ。


ミレイユは、あらかじめ用意していた、古い機械式の計器に目を移した。歯車とばねだけで動く、百年前の設計の気圧計と温度計。アイソフェミアの介在しない、ただの物理の道具。


その針が、わずかに揺れて、止まった。


「濃度、ゼロ」


オーウェンはもう一度画面を確かめてから言った。


「博士。完全にゼロです」


ミレイユは、しばらく何も言わなかった。


十一年かけた研究だった。ハロウフィールドの事件の後、あの地下の会議室でアシュクロフトが「止める方法はありません」と報告したとき、彼女はその席の末端にいた。あの夜から、彼女はほとんど眠っていない。


「振り子を、動かして」


オーウェンが遠隔操作のスイッチを押した。台の上の小さな球が、細い糸に吊られて、ゆっくりと揺れ始める。


モニターに、その周期が表示された。


ミレイユは、その数字を見つめた。


教科書に載っている値と、ほんのわずかに、違っていた。小数点以下の、三桁目。測定誤差と言えばそれまでの、ごく小さなずれ。


「……誤差、ですよね」


オーウェンが言った。


ミレイユは答えなかった。彼女は、この会社の中で、その教科書の値がどこで、どの装置で、誰によって測られたのかを知っている、数少ない人間の一人だった。


「入るわ」


「博士、まだ安全確認が」


「確認は、私がする」


ミレイユは防護服を着ずに、白衣のまま二重扉の前に立った。


一枚目の扉が閉まる。前室で、全身にアンチ・アイソフェミアの霧が吹きつけられた。冷たくも熱くもない。


二枚目の扉が開いた。


部屋の中は、静かだった。


ミレイユは、ゆっくりと部屋の中央へ歩いた。


彼女は白衣のポケットから、細い端末を取り出した。研究者用の小型のワンド。毎日、何百回と使ってきた道具。


軽く振った。


何も、起きなかった。


台の上の振り子は、相変わらず、少しだけ教科書と違う周期で揺れていた。ペンが浮かぶことも、空気が光ることもない。ここでは、彼女はただの人間だった。


ミレイユは、ワンドを床に置いた。


それから、天井の照明を見上げた。光の色が、ほんの少しだけ、温かかった。


「……これが」


声が、震えた。


「これが、本当の世界なのね」


ガラスの向こうで、オーウェンが壁の受話器を取っていた。


「はい。……はい。濃度、ゼロ。博士が、区画内に」


彼は、少し間をおいて、言った。


「人間が入れました」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


同日、午前四時四十分。


ミレイユは、端末から、本社理事会へ直接報告を送った。


画面の向こうに、ヴィクトリア・ハルトマンの顔が映った。この時間でも、髪ひとつ乱れていない。


「報告は読んだわ。素晴らしい成果よ、ソーン博士」


「ありがとうございます」ミレイユは、まだ目の縁が赤かった。「これで、ハロウフィールドも、セクター2も、欧州の汚染区域も、消せます。量産体制さえ整えば、数か月で……」


「ええ」ハルトマンは微笑んだ。「それはいずれ」


ミレイユは、言葉を止めた。


「いずれ……ですか」


「博士。アンチ・アイソフェミアは、汚染を消せる。それは同時に、私たちを、どんな汚染からも完全に守れるということよ。戦場で何が起きても、塔をいくつ壊されても、もう私たちには関係がない」


ハルトマンは、画面の向こうで、ゆっくりと手を組んだ。


「つまり、もう戦争を続けてもらう必要がなくなった、ということ」


「戦争を……続けて、もらう?」


ハルトマンは、それには答えなかった。


「アシュクロフトに伝えて。各国の代表団に、例の信号を準備するように、と。国連には、この戦争を、きちんと終わらせてもらいましょう」


通信が切れた。

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