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アイソフェミア ―第4次産業革命が魔法と呼ばれた世界―  作者: ArgasNorn


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コンフィデンシャル

二〇三六年六月十一日、午前三時。アーガスノルン・コーポレーション北米本社、地下。


壁は厚い鉛と銅の層で覆われ、空気は三重のフィルターで濾過されている。社内でただ一つ、ナノマシンである「アイソフェミア」が一粒も存在しない空間だった。


楕円形のテーブルについているのは六人だった。


最高経営責任者、ヴィクトリア・ハルトマン。北米支部最高技術責任者、ダニエル・アシュクロフト。法務担当役員、情報管理部門の責任者、軍事契約部門の責任者。そして、車椅子に座った一人の老人。


エドムント・ローレ。九十一歳。一九八〇年代にアイソフェミアの基礎設計を手がけ、のちに「アイソフェミア・プロジェクト」と呼ばれる計画を立ち上げた人物だった。


「始めて」


ハルトマンが短く言った。


アシュクロフトが立ち上がり、壁のスクリーンに一枚の図を映した。二〇二三年に世界の前で水の球を浮かべてみせた男の顔には、今は笑みの欠片もなかった。


「結論から申し上げます。ハロウフィールドの現象の原因が、ほぼ特定できました」


スクリーンには、一つのアイソフェミアの構造図と、その周囲を流れる矢印が描かれている。


「ご存知の通り、アイソフェミアは信号塔からの信号と、周囲の環境からわずかなエネルギーを取り込んで稼働しています。通常の利用であれば、その収支は常に釣り合っています」


彼は、次の図に切り替えた。


「ところが、ある地域で力場を過剰に使い続けると、そこに漂うアイソフェミアの手持ちのエネルギーが、補給を上回る速さで消費されていきます。そして一定の値を下回ったとき、設計段階で組み込んでいた、ある機能が働き始めます」


「自己保存機能ね」ハルトマンが言った。


「はい。本来は、故障や劣化で個体数が減りすぎないよう、ごく控えめに働くはずの安全装置でした。ですが、エネルギー不足の状態では、それが他のすべての命令より優先されます。外部からの信号を受け付けなくなり、ひたすら自分たちを保存し、増やすために、手近なところからエネルギーを奪うようになる」


「手近なところ、というのは」法務担当役員が尋ねた。


アシュクロフトは、一瞬だけ答えに詰まった。


「最も効率よくエネルギーを得られる場所。つまり、人間の体の中です」


部屋が静まり返った。


「特に、電気的な活動が最も盛んな器官から」


誰も、その器官の名前を口にしなかった。口にする必要もなかった。


「止める方法は」軍事契約部門の責任者が言った。


「現時点では、ありません」アシュクロフトは答えた。「制御不能になった個体は、信号塔からの停止命令も、自壊命令も受け付けません。周囲の有機体を取り込んで、さらに増えていきます。ハロウフィールドの濃度が測定上限を超えたのは、そのためです」


「では、報道を抑えなさい」ハルトマンは言った。「いつものように。測定値を整えて、感染症の数値を出して」


アシュクロフトは、ゆっくりと首を振った。


「それが、最も深刻な問題です」


彼は、次の図を映した。三十年以上にわたって社内で「遠隔調整」と呼ばれてきた仕組みの概略図だった。全世界の空気中に漂うアイソフェミアが、あらゆる測定対象とあらゆる分析装置の両方に作用し、望む数値を作り出す。


「ご承知の通り、我々がこれまで世界中の測定値を整えてこられたのは、測定の場にいるアイソフェミアが、我々の信号に従って動いていたからです。善人物質も、悪人物質も、ナノマシンの安全性の数値も、すべてそうやって作ってきました」


彼は、スクリーンに映る小さな粒の群れを指さした。


「ですが、ハロウフィールドでは、その測定値の改竄を担うはずのアイソフェミアそのものが、制御不能になっています。命令を出しても従わない。装置の周りにいるのは、我々の道具ではなく、飢えた群れです」


「つまり」


「つまり、ハロウフィールドの装置が示している数値は、三十年ぶりに、本物だということです」


長い沈黙の後、口を開いたのは、車椅子の老人だった。


「一九九〇年に、この計画書を書いたとき」


エドムント・ローレの声は、かすれていたが、よく通った。


「私は最後の頁に、こう記した。数値への信頼を通じて、意思決定の権限を段階的に当社へ移す、と」


若い役員たちは、黙って彼を見た。その一文を、彼らは入社のときに暗記させられていた。


「我々は数値を作り、世界はそれを信じた。だが私は、ひとつだけ見落としていた。嘘の数値が通じるのは、嘘をつく道具が、我々の言うことを聞いている間だけだということを」


老人は、細い指でテーブルを叩いた。


「ハロウフィールドの数値は、もう我々には書き換えられない。そして世界は、三十年ぶりに、本物の数値を見ることになる」


ハルトマンは、しばらく目を閉じていた。それから、静かに言った。


「では、本物を使いましょう」


全員の視線が、彼女に集まった。


「ハロウフィールドの数値を、隠すのではなく、見せる。制御を失ったアイソフェミアがどれほど恐ろしいものか、世界に教えるのです。そして、こう言う。これを抑え込めるのは、アイソフェミアを設計した我々だけだと」


「ですが、我々にも止める手段は……」アシュクロフトが言いかけた。


「世界はそれを知らない」ハルトマンは遮った。「政府には測れない。軍にも測れない。この空気の中で何が起きているのか、本当に分かっているのは、この部屋にいる六人だけよ」


彼女は立ち上がり、スクリーンに映るハロウフィールドの地図を見上げた。


「各国政府は、自分たちが国民を守れないことを、これから思い知るでしょう。」


「封鎖区域を、当社の管理下に置くよう各国に要請します」法務担当役員が、静かにメモを取り始めた。「名目は、汚染区域の安全管理」


「区域の名前も考えておいて」ハルトマンは言った。「国の名前ではないものを」


会議が終わり、役員たちが部屋を出ていったあと、アシュクロフトは一人、スクリーンの前に残っていた。


ハロウフィールドの濃度を示す地図は、いまも中心から赤黒く染まり、少しずつ、その縁を外へと広げている。


彼は二〇二三年の、あの日の拍手を思い出していた。水の球に驚き、魔法だと叫んだ人々の顔を。


「人類は長い間、これを魔法と呼んできた」


彼は、自分が口にした言葉を、小さく繰り返した。


「今日から、それは技術になる、か」


スクリーンの中で、赤黒い染みが、また少し広がった。

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