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水に取られた ー八雲島水籠記ー(改訂版)  作者: 大西さん
第2章 八雲島への航路
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第9話 地図にない島

七月十五日、慎一は島根県の小さな港町・潮見に立っていた。


東京から夜行バスで出雲まで行き、そこから在来線を乗り継いで三時間。ようやくたどり着いた港は、想像以上に寂れていた。錆びついた漁船が数隻、防波堤に係留されている。潮の匂いが強く、どこか腐敗したような臭いも混じっていた。


朝の潮見港は、霧に包まれていた。その霧も普通ではない。青みがかっていて、触れると肌がひんやりと湿る。そして、霧の粒子の一つ一つが、まるで生きているかのように蠢いている。顔を近づけてよく見ると、極小の何かが霧の中を泳いでいるようにも見えた。


慎一は、持参した地図アプリを確認した。GPSは正常に作動している。しかし、画面には自分の位置を示す青い点が、何もない海の上に浮かんでいるだけだった。


「電波の調子が悪いのかな」


そう思って画面を更新すると、一瞬、地図上に島の輪郭が現れた。しかし、瞬きをする間に、それは消えてしまった。


後で気づいたことだが、その時撮影したスクリーンショットには、確かに島が写っていた。ただし、その形は、見るたびに微妙に変化しているような――まるで、島自体が呼吸をしているかのように、輪郭が膨張と収縮を繰り返していた。


慎一は、小さな待合所を探した。


『渡船場』と書かれた古い看板が、かろうじて読める。建物は、今にも崩れそうな木造の小屋だった。


ガラス戸を開けると、カビ臭い空気が流れ出してきた。薄暗い室内には、木製のベンチがいくつか並んでいる。壁には色褪せた時刻表が貼られていたが、八雲島行きの便は載っていない。


そして、慎一は気づいた。


待合所に、自分以外にも人がいる。


片隅のベンチに、老夫婦が座っていた。老婆は小さな子供服を抱きしめ、静かに泣いている。老人は妻の肩を抱きながら、虚ろな目で宙を見つめていた。


その隣には、中年の男性が座っていた。膝の上に、古い写真を何枚も広げている。どれも若い女性の写真だが、顔の部分が水で滲んで判別できない。男性は写真を一枚一枚、愛おしそうに撫でている。


そして、窓際に若い女性が立っていた。看護師のような服装だが、首筋に大きな絆創膏を貼っている。その下から、青黒い痣のようなものが覗いていた。彼女は窓の外を見つめたまま、微動だにしない。


全員、同じ船を待っているのだろうか。


慎一は、それぞれの事情を想像した。老夫婦は孫を、中年男性は娘を、そして若い女性は……何を失ったのだろうか。


これらの人々の物語も、語り継がれるべきものかもしれない。


「すみません」


慎一は受付窓口の老人に声をかけた。白髪の老人は、じろりと慎一を見た。その目は、濁った水のような色をしていた。瞳孔も開いたままで、焦点が合っていない。


「八雲島に行きたいんですが」


老人の表情が変わった。目を細め、まるで値踏みするように慎一を眺める。そして、にやりと笑った。黄色い歯の隙間から、かすかに潮の匂いがした。


「あんた、どこの人だ」


「東京から来ました。友人の見舞いに」


「見舞い……ねえ」


老人は鼻で笑った。しかし、その笑い声は乾いていて、まるで溺れかけた人の咳のようだった。


「あの島に見舞いに行く物好きがいるとはな。最近は多いな、物好きが」


老人は、待合所にいる他の人々を顎で示した。


「今日は大漁だ。四人も行くとは。普段は月に一人いるかいないかなのに」


慎一は他の待機者たちを改めて見た。皆、どこか虚ろで、生気がない。まるで、すでに魂の一部を失っているかのような。


「船は出てますよね?」


「出るには出る。だが……」


老人は立ち上がり、待合所の奥から古い台帳を持ってきた。革表紙は湿気でふやけ、ページは黄ばんでいる。


老人が台帳を開くと、かび臭い匂いが広がった。


そのページには、びっしりと名前が書かれていた。しかし、半分以上の名前の横に、赤い×印がついている。そして、×印の横には日付。消息を絶った日付だろうか。


「今日は大潮だ。行くなら今しかない。次は一週間後になる」


「今日行けるんですね」


「行けるが、帰れる保証はないぞ」


老人は、不気味に微笑んだ。


「あの島の周りは潮の流れが複雑でな。『七つ潮』と呼ばれる七つの海流が渦を巻いている。下手をすると、船が吸い込まれる」


老人は、台帳のあるページを示した。


『昭和五十八年七月 水野久遠 調査 ×八月二十日』


その名前が、あった。そして、赤い×印。


「この人は、帰ってきたはずでは」


慎一が指摘すると、老人は意味深に笑った。


「ああ、確かに本土には戻った。だが、『帰ってきた』とは言えんな」


「どういう意味ですか?」


「帰ってきたのは、体だけだ。魂は、島に置いてきた」


老人は、慎一の手首を見た。袖から覗く青い痣を見て、満足そうに頷いた。


「あんたも、もう始まってるな。なら、行くしかあるまい」


「船賃は往復で一万二千円だ。前払いでな」


慎一が財布を出すと、老人は首を横に振った。


「現金じゃない。これに記帳してもらう」


差し出されたのは、古い帳面だった。名前、住所、連絡先、そして「渡島目的」を書く欄がある。


最後の欄には、不吉な項目があった。


「緊急連絡先」「遺体引取人」「遺言」


慎一は躊躇したが、記入を始めた。ペンを走らせていると、インクが紙に染み込む際に、奇妙な音がした。


じゅわっ、という湿った音。まるで、紙が水を吸い込んでいるような。


記帳を終えると、老人は奥から鍵を持ってきた。錆びた真鍮の鍵で、持ち手に奇妙な紋章が刻まれている。よく見ると、それは渦巻きのような、水の流れを表した図案だった。七つの渦が、中心に向かって螺旋を描いている。


「船着き場の三番に『渡海丸』がある。船長の名は甚助。この鍵を見せれば乗せてくれる」


「ありがとうございます」


慎一が待合所を出ようとすると、老人が呼び止めた。


「おい、若いの」


「はい?」


「島で雨に遭ったら、絶対に外に出るな。いいな」


「なぜですか?」


老人は答えなかった。ただ、窓の外を見つめて、小さくつぶやいた。


「雨は、あいつらの涙だからな。千年分の、悲しみの涙だ」


慎一は、老人の言葉の意味を図りかねたが、頷いて外に出た。


待合所を出ると、他の乗客たちもぞろぞろと出てきた。皆、無言で港に向かって歩いていく。その足取りは重く、まるで処刑場に向かう死刑囚のようだった。

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