第6話 侵食の始まり
「なあ、百合川さん」
慎一は慎重に言葉を選んだ。
「なんで俺に、この話をしようと思ったんだ?」
振り返ったあかねの目に、一瞬、罪悪感のような感情が浮かんだ。しかしそれはすぐに消え、必死な表情に変わった。
「羽生くんは、消えていく文化を記録するのが民俗学を学ぶ者の使命だって、いつも言ってるでしょう?」
「ああ」
慎一の信念を、あかねは正確に理解していた。それが嬉しくもあり、同時に不安でもあった。
「私の島も……このままじゃ、本当に消えてしまうかもしれない。人が減って、若い人は島を出て。でも、あの祭りだけは続いている。誰かが消えることも」
慎一は考え込んだ。確かに離島の過疎化は深刻な問題だ。しかし、毎年人が消えるというのは尋常ではない。
「警察は?」
「来たこともある。でも、いつも事故か自殺で処理される。島の人は誰も本当のことを話さないから」
あかねの声が、急に平坦になった。自分の意志とは別の何かが、彼女の口を動かしている。そう思えるほど、抑揚が、すっぽりと抜け落ちていた。そして、慎一は気づいた。あかねが話しているあいだ、足元の影が、奇妙に揺れている。地面に、薄く水が滲んで、その上で、影だけが、ゆらゆらと波打っていた。
「君は……本当のことを知っているのか?」
あかねは答えなかった。ただ、また空の水筒を見つめた。慎一は、その底に、黒いものが蠢いているのを見た。小さな魚の影にも、解けた髪の束にも見える、何かが。
「私、来月から島に帰るの」
唐突な告白に、慎一は驚いた。
「え? 大学はどうするんだ」
「休学届けはもう出した。島に……帰らなきゃいけないから」
その言い方が気になった。帰りたい、ではなく、帰らなければならない。何かに強制されているようだった。慎一は、あかねの腕を見た。長袖のブラウスの袖口から、青黒い痣のようなものが覗いている。
あかねが立ち上がった。その動きが妙にぎこちない。関節が軋むような音がした。そして、彼女が座っていたベンチが濡れていることに、慎一は気づいた。
「もし……もし羽生くんが興味を持ってくれたら、一度島に来てくれない? 夏休みにでも」
慎一は即答できなかった。学術的な興味はある。しかし、あかねの様子には不穏なものを感じる。そして、幼い頃の井戸の記憶が、警告を発していた。
行ってはいけない。
でも、記録しなければならない。
矛盾する思いが、慎一の中でせめぎ合った。
「調査として?」
「そう……民俗学の調査として。島の信仰や祭りを記録してほしいの。きっと、貴重な資料になると思う」
あかねが慎一の手を取った。
その手は、氷のように冷たく、そして妙に湿っていた。皮膚の感触も奇妙だった。人間の肌というより、濡れたゴムのような。
「お願い。あなたしか……いないの」
その瞬間、慎一は感じた。あかねの手から、何かが自分の中に入り込んでくるような感覚を。冷たい水が、血管を通って体中に広がっていくような。慎一は反射的に手を引いた。
しかし、もう遅かった。手首に、青い痣のようなものができている。あかねの手の跡が、火傷の痕のように残っていた。
「考えさせてくれ」
慎一の返事に、あかねは小さく頷いた。しかし、その目には失望ではなく、むしろ安堵のような色が浮かんでいた。断られることを、望んでいたかのようだった。
「ありがとう。話を聞いてくれただけでも」
あかねは、ふらふらと歩き始めた。その後ろ姿を見て、慎一は奇妙な胸騒ぎを覚えた。
あかねの背中が、濡れている。
暑い日でもないのに、ブラウスが、肩甲骨のあたりにじっとりと張り付いている。汗、とは違う。もっと、内側から滲み出たような濡れ方だった。
慎一は、声をかけようとして、やめた。何を言えばいいのか、分からなかった。ただ、彼女の後ろ姿が、雨に濡れて立ち尽くす迷子のように、ひどく心細げに見えた。
――何かが、おかしい。
それが何なのか、まだ言葉にはできなかった。けれど、放ってはおけない。あかねは、確かに、助けを求めている。
慎一は、自分にそう言い聞かせた。学問の徒として、消えゆくものに目を凝らすのが、自分の役目だ。あかねの抱える「何か」を、見届けなければならない。
その時の慎一は、まだ知らなかった。その役目めいた使命感こそが、彼を、後戻りできない場所へ運んでいくことを。




