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第5話 潮の匂い

二人は大学の裏手にある小さな公園のベンチに座った。初夏の緑が濃く、蝉の声はまだ聞こえない。風が吹くたびに、木々の葉がさわさわと音を立てる。普段なら心地良い場所だが、今日は違った。


あかねはしばらく黙って、手元の水筒を見つめていた。中身は空のようだが、なぜか水筒の内側が濡れているのが見えた。そして、その水は透明ではなく、かすかに青みがかっている。


そして、かすかに、潮の匂いが漂ってきた。


磯の香りとは、少し違う。海辺に打ち上げられた海藻が、長く陽に晒されたあとのような――生と死の境目の匂い。それが、あかねのほうから漂ってくる気がして、慎一は落ち着かなくなった。気のせいだ、と思おうとした。


「実は……私の故郷のことなの」


ようやく口を開いたあかねの声は、かすかに震えていた。


「故郷? 確か島根の……」


「八雲島。本土から船で二時間くらいの小さな島」


慎一は頭の中で日本地図を思い浮かべたが、その名前に心当たりはなかった。しかし、なぜか、うなじのあたりが、ひやりとした。八雲……その響きが、何か不吉なものを連想させる。


「聞いたことないな。どんな島なんだ?」


「人口は三百人くらい。漁業と、少しの農業で生きている島。豊かではないけれど、美しい島よ」


あかねの目に、一瞬、郷愁の色が浮かんだ。しかし、それはすぐに恐怖に塗り替えられた。


「でも……」


あかねは言葉を切った。風が吹いて、公園の木々がざわめいた。その音が、まるで水音のように聞こえた。大量の水が流れるような、不吉な音。


「でも?」


「毎年、誰かがいなくなるの」


慎一は眉をひそめた。


「いなくなる? 事故か何か?」


「違う。みんな……水神様に還るって言うの。でも、本当のことは誰も教えてくれない」


あかねの手が震えていた。水筒を握る指の関節が白くなっている。そして、慎一は気づいた。あかねの手の甲が、妙に青白いことに。血の気がないというより、皮膚の下にうっすらと青いものが透けているような白さ。光の加減かと思い、目を凝らすと、それはもう、ただの青白い手に見えた。


「小さい頃、友達が井戸に落ちたの」


あかねが続けた。声は平坦だが、その奥に深い恐怖が潜んでいる。


「みんなで かくれんぼをしていて、真理ちゃんが井戸の縁に隠れていた。そしたら、何かに引っ張られるように、井戸の中に落ちていった」


慎一の幼い頃の記憶が蘇った。井戸の中で見た、あの無数の顔。自分を引きずり込もうとしていた、死者たちの手。


「それで、その子は?」


「助け出された時、生きていた。でも……違っていた。目が、どこか遠くを見ているみたいで。話しかけても、水の中から聞いているみたいに、反応が遅くて。そして、いつも、体のどこかが濡れていたの。拭いても、拭いても」


慎一は息を呑んだ。


「そして、その夜、真理ちゃんはまた井戸に向かって歩いていった。お母さんが止めようとしたけど、すごい力で振り払って。誰も止められなかった」


あかねの声が、次第に小さくなっていく。


「翌朝、井戸は溢れていた。普段は枯れかけている井戸なのに、澄んだ水で満ちていた。でも、真理ちゃんの姿はどこにもなかった。ただ、井戸の底に、子供用の髪留めが沈んでいるのが見えただけ」


民俗学を専攻する身として、慎一の興味が動いた。水神信仰は日本各地に見られるが、現代でも人が消えるという話は穏やかではない。


そして、慎一は自分の中で何かが共鳴するのを感じた。あの井戸での体験と、あかねの話が、深い部分で繋がっているような感覚。


記録しなければならない。


この話を、正確に、詳細に記録しなければ。また一つ、水の底に沈んで消えてしまう物語になる前に。


「いつから、そんなことが?」


「ずっと昔から。記録では、少なくとも千年前から。私が物心ついた時にはもう、島の人たちは当たり前のように受け入れていた。毎年、旧暦の八月十五日の祓水祭の後、必ず一人いなくなる」


慎一はフィールドノートを取り出した。民俗学を学ぶ学生として、こうした話を聞き流すことはできない。しかし、ペンを持つ手が、なぜか震えている。


「祓水祭? どんな祭りなんだ?」


「水の神様に、豊かな水を願う祭り。島では、ただ『水神様』としか呼ばないの。でも、詳しいことは……」


あかねの顔が青ざめた。そして、口元を押さえた。


「百合川さん?」


「ごめん。ちょっと……」


あかねは立ち上がり、数歩離れたところで激しく咳き込んだ。その時、慎一は見てしまった。


あかねの口から、水が零れ落ちるのを。


透明な、しかしどこか濁った水。それは普通の唾液ではなかった。まるで、体の中から湧き出してくるような。そして、地面に落ちた水は、すぐに蒸発せず、奇妙にうごめいていた。

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