第52話 逸れる道
慎一は港を離れ、島の反対側を目指した。
津見港側の、もう一つの船着き場。霧が薄いかもしれない。漁船の一艘くらい、あるかもしれない。海が無理なら、せめて、本土へ無線を。
地図を思い出しながら、夜の道を走った。月明かりが、霧でぼやけている。
走っても、走っても、見覚えのある景色に戻ってくる。
清明井の、あの広場。
慎一は立ち止まった。確かに、北へ向かったはずだった。なのに、井戸の前に立っている。もう一度、方向を確かめ、走り出す。今度こそ、北へ。
しばらくして、また、同じ広場に出た。
三度目だった。喉の奥が、ひゅっと鳴った。
足元の道は、確かに続いている。分かれ道もある。慎一はそのたびに港へ向かう方を選んだ。なのに、道は、緩やかに、優しく、彼を井戸へと連れ戻す。誰かが妨げるのではない。ただ、選んだはずの道が、いつのまにか逸れている。
民俗学で読んだ、ある話を思い出した。山中で道に迷い、同じ場所を巡り続ける「山隠し」。あれは、方向感覚の喪失と説明されることが多い。だが、いま、慎一が体験しているのは、それとは違った。
道は、間違っていない。慎一の足も、確かに北を向いている。歪んでいるのは、島そのものの空間だった。まっすぐ進んでいるはずなのに、地面が、海が、夜が、ゆっくりと捻れて、すべての道を、清明井へと注ぎ込んでいく。島全体が、一つの巨大な漏斗で、その底に、あの井戸があるかのように。
水が低きへ流れるように、慎一もまた、否応なく、最も深いところへと、流されていく。
霧の中に、人影が見えた。島民たちだった。
老人も、女も、子供も。みな、慎一を取り囲むのではなく、ただ、それぞれの場所に立って、静かに彼を見ていた。咎める顔ではない。むしろ温かい、迎えるような顔だった。
「お帰りなさい」
誰かが言った。
「待っていましたよ」
別の誰かが言った。
慎一は悟った。
逃げ道は、なかった。最初から。船が出ないのではない。道が塞がれているのでもない。この島そのものが、彼を放さない。優しく、温かく、家族のように。
膝が、震えた。霧の冷たさが、肌から染み込んでくる。いや――冷たさではない。水が、肌の内側へ、入ってこようとしている。
慎一は塩の包みを握りしめた。手のひらに塩を出し、肌に擦り込む。鋭い痛みとともに、水の気配が、わずかに退いた。
だが、それも、長くは保たない。塩は、もう、ほとんど残っていなかった。




