第51話 港へ
慎一は立ち上がった。
逃げる。あかねを連れて、本土へ帰る。まだ、間に合うかもしれない。
「一緒に行こう。君も」
あかねは首を振った。
「私は、もう、無理。体が、ここから離れられない。でも、あなたは、まだ。早く」
慎一はノートと、わずかな荷物を掴んだ。塩の包み――島へ渡る船を降りるとき、漁師の甚助が「お守りだ」と言って握らせてくれた塩――を掴み、夜の道へ飛び出した。
港まで、走った。
夜の島は、静かだった。家々の灯りは、どれも温かく灯っている。すれ違う島民は慎一を見ても、咎めなかった。「こんばんは」と、穏やかに会釈さえした。誰も、追ってこない。誰も、引き止めない。
それが、かえって恐ろしかった。
船着き場に着いた。渡海丸が、舫われている。慎一は操舵室を覗いた。船長の甚助が、いた。
「甚助さん! 本土へ。今すぐ。頼む」
甚助はゆっくりと振り返った。日に焼けた、皺深い顔。彼は気の毒そうに、首を振った。
「すまんな。今夜は、霧が出る。明日も、明後日も。祭りが終わるまでは、船は出せん」
「霧なんて、出てない!」
慎一は海を指した。だが――いつのまにか沖から、白い霧が、音もなく這い寄ってきていた。みるみる港を包み、本土の灯りを覆い隠していく。
「ほら、な」
甚助は静かに言った。
「無理して出れば、座礁する。何人も、そうやって死んだ。あんたを、死なせたくない」
船首で、古い鈴が、霧の風に揺れて、ちりん、と鳴った。




