第50話 引き裂かれ
「でも」
あかねの声が、震えた。
「でも、私、あなたを、好きになっちゃった」
慎一は彼女を見た。
「役目の人は、よそ者を好きになっちゃいけない。連れてくるだけで、心は渡しちゃいけない。前の役目の人に、そう教わった。好きになると、いちばん辛いからって。――でも、私、守れなかった」
涙が、あかねの頬を伝った。流れた涙は、青く光っていた。
「最初は、ただの獲物だと思ってた。水を恐れる人。八雲島の伝承に、必ず食いつく人。連れてくるのに、ちょうどいい人」
あかねの声が、湿っていく。
「でも、あなたと話すうちに、分からなくなった。あなた、覚えてる? 去年の秋、ゼミの飲み会の帰り。私が、川沿いの道を歩けなくて、立ち止まっちゃった夜」
慎一は、覚えていた。あかねが橋の手前で足を止め、青い顔で動けなくなった。慎一は理由を聞かず、ただ、川の見えない裏道へ、遠回りして送っていった。自分も水が怖いから、と笑って。
「あなただけだったの。理由を聞かずに、遠回りしてくれたの。自分も怖いんだって、笑ってくれたの。あの時、思っちゃった。この人と、水を怖がりながら、二人で生きていけたら、って。――餌役が、いちばん思っちゃいけないことを」
涙が、あかねの頬を伝った。流れた涙は、青く光っていた。
「ゼミで、あなたが、消えた文化を語り継ぐことが人を救うって、真剣に話すのを聞いて。井戸で見た顔たちを、ずっと忘れられないって、苦しそうに言うのを聞いて。私、あなたを、島に連れてきたくなくなった」
「だったら、なぜ」
「連れてきちゃったの」
あかねは自分の手を見つめた。
「気づいたら、あなたを島の話に誘ってた。気づいたら、一緒に船に乗ってた。役目が、私の口を動かすの。私の意志より、ずっと強い力で。逃げてって言いたいのに、口は、おいでって言うの。それが、いちばん、怖い」
あかねは、そこで、口をつぐんだ。何かを、必死に言おうとしているのが分かった。唇が震え、喉が、ひくりと動く。慎一は、待った。
「……いま、あなたに、言わなきゃいけないことがあるの。本当の、大事なこと。早く、ここから……」
そこまで言って、あかねの声が、不自然に途切れた。喉の奥で、何かがつかえたように。彼女は、苦しげに口を開いた。けれど、出てきたのは、まるで別人の、平坦な声だった。
「……ううん。なんでもない。祭り、楽しみだね。きっと、慎一さんも気に入る」
あかねの目が、見開かれた。自分が口にした言葉に、彼女自身が、いちばん怯えていた。
「ね? 分かるでしょう。これが、役目なの。さっき、私、あなたに大事なことを言おうとした。でも、口が、勝手に……」
涙が、また青く光って、頬を伝った。
慎一は千年前の双子の巫女を思った。姉を止めようとして、止められなかった妹。愛と、役目の力。あかねはその同じ引き裂かれを、いま生きていた。
あかねは、ぽつりぽつりと、本土での二年間を語った。
役目を引き受けた後、彼女は島を出て、本土の大学に「進学」した。書類は、島が用意した。誰かが手を回しているのか、それとも、もっと得体の知れない力が働いているのか、あかねには分からなかった。ただ、何の障害もなく、彼女は民俗学のゼミに潜り込んだ。
水にまつわる伝承を追う学生。水を恐れながら、水に惹かれる者。そういう「獲物」を、彼女は静かに探した。
「最初の一年は、何とも思わなかった。役目だから、淡々とこなすだけ。本土の生活も、ぜんぶ、仮のものだと思ってた。どうせ、誰かを連れて島に帰れば、終わる」
けれど、慎一と出会って、それが狂った。
「あなたは、私を、ただのクラスメイトとして扱った。獲物にとっての、都合のいい標的じゃなくて。ひとりの人間として。一緒に古文書を読んで、学食でくだらない話をして、フィールドワークの計画を立てて。……私、忘れてた。そういう、普通の時間が、こんなに、温かいものだって」
あかねの声が、震えた。
「二年経つ頃には、もう、連れていきたくなかった。あなただけは。でも、役目は、待ってくれない。私の体は、少しずつ、水に戻っていく。役目を果たさなければ、私が取られる。そうしたら、また別の餌役が、別の誰かを連れてくるだけ。何も、変わらない」
だから、彼女は、自分に言い聞かせたのだという。どうせ誰かが犠牲になるなら。せめて、自分が、最後まで、そばにいられる相手を。
「最低でしょう。好きだから、連れてきた、なんて」
「ねえ、慎一さん」
あかねがすがるように言った。
「だから、お願い。逃げて。今すぐ。明日の祭りの前に。私が役目を果たす前に。お願いだから」
慎一は、すぐには、答えられなかった。
胸の中で、いくつもの感情が、渦を巻いていた。騙されていた、という痛み。獲物として選ばれていた、という屈辱。だが、それらすべてを押しのけて、いちばん上に浮かんできたのは、まるで違う想いだった。
――俺も、好きだった。
その自覚が、いま、こんな最悪の瞬間に、はっきりと、輪郭を結んだ。あの図書館の午後も、学食のくだらない時間も、川沿いを遠回りした夜も。慎一にとって、あれは、ただのゼミ仲間と過ごす時間ではなかった。あかねといると、水を恐れる自分の弱さすら、許される気がした。同じ恐れを抱える者同士の、静かな安らぎ。あれは、恋だった。気づかないふりを、していただけで。
言えばよかった。島に来る前に。普通の場所で、普通の言葉で。「好きだ」と。そうすれば、何かが、違っていただろうか。
だが、いまさら、言えなかった。
ここで「好きだ」と言えば、それは、あかねの罪を、さらに重くするだけだ。好きな相手を、自分が餌にした――その事実を、より深く、彼女に刻むだけだ。だから慎一は、その言葉を、飲み込んだ。胸の、いちばん奥に。
代わりに、できるだけ、穏やかに言った。
「君のせいじゃない」




