第42話 娘のノート
書庫の隅に、新しいノートが一冊あった。日付は、二〇一六年。
筆跡が違う。女性の、丸みのある字。
水野香織。久遠の娘。父と同じ医師になった彼女は、父の遺品と研究ノートを頼りに、父が消えた島へ渡った。
慎一はそのノートを読み始めた。そして、読み進めるうちに、ページをめくる指が、止まりがちになっていった。
『島に着いた初日。潮待庵の女将さんが、実の娘を迎えるように、私を迎えてくれた。温かいお風呂と、心のこもった夕食。こんなに優しい島の、どこに父を消した秘密があるのだろう。』
慎一は自分の三日前を思い出した。キヨの温もり。豊かな夕食。一字一句、同じだった。
『二日目。島の井戸を見せてもらった。七つの井戸。どれも美しく、特に清明井という井戸の水は、吸い込まれそうなほど澄んでいた。私は、しばらく見惚れてしまった。』
慎一も、清明井の前で、時を忘れて立ち尽くした。
『三日目。島を案内してくれる女の子がいる。佐和子さん、というらしい。本土から嫁いできたと言っていたけれど、どこか様子が変だ。島の人たちは、彼女を「役目の人」と呼ぶ。何の役目なのか、聞いても、はぐらかされる。』
慎一の指が、止まった。あかね。彼女もまた、「役目の人」と呼ばれていた。
『四日目あたりから、体がおかしい。手首に、青い痣。水を飲むのが、怖い。なのに、水のそばに行きたくてたまらない。父も、こうだったのだろうか。』
ページをめくる手が、震えた。慎一の症状と、寸分も違わなかった。
『五日目。怖くなって、港へ走った。本土へ帰ろうとした。でも、船は来ない。霧が出て、海が見えない。漁師さんたちは、みんな優しく笑って、「次の便を待ちなさい」と言う。優しいのに、誰も、船を出してくれない。』
慎一は、まだ自分が試していない逃走の結末を、そこに見た。
『六日目。おかしなことに気づいた。私の感覚では、まだ三日くらいしか経っていない。なのに、手帳の日付は、六日目を指している。時間が、溶けていくみたい。島の水が、私の中の何かを、ふやかしている。』
慎一は、今朝の自分を思った。スマートフォンの日付。狂った時間の感覚。何もかも、同じだった。香織が辿った道を、自分は、寸分違わず、なぞっている。
香織のノートは、淡々と続いていた。彼女が辿った道は、いま慎一が辿っている道だった。先に進めば、自分の数日後が書かれている。慎一は自分の未来を、死んだ女のノートで読んでいた。
そして、ところどころに、安らぎの記述が混じっているのが、何より恐ろしかった。
『でも、不思議と、怖くない日もある。島は美しい。人は優しい。水の音を聞いていると、心がほどけていく。ずっとここにいてもいいかもしれない、と思ってしまう自分が、いる。それが、いちばん、怖い。』
恐怖と安らぎ。その二つが、香織の中で、慎一の中で、同じように、混ざり合っていた。




