第40話 対岸の廃墟
島の北側、岬の突端に、本土を望む小さな船着き場がある。津見港からの渡海丸が、霧の濃い日にだけ立ち寄る、もう一つの寄港地。
その船着き場のそばに、朽ちかけた木造の建物が建っていた。潮風に灰色に晒された看板に、かろうじて文字が読める。
『水野医院』
本土の津見港にあった医院が、島にも分院を持っていたのか。あるいは、医師の誰かが、この島に通っていたのか。
慎一の足が、止まらなかった。引き寄せられる、というより、足のほうが、勝手に、その扉へ向かっていく。井戸の水が低きへ流れるように、自分の体が、この廃墟へ、流れ込んでいく感覚があった。よせ、と頭の隅で声がした。だが、記録者の好奇心が――いや、それだけではない、もっと得体の知れない何かが、慎一の手を、朽ちた扉へ伸ばさせた。
蝶番が、長く軋んだ。湿った空気が、内側から、ぶわりと流れ出してくる。カビと、古い紙と、そして、かすかな潮の匂い。海から、離れているはずなのに。
中は診察室の体裁を保っていた。錆びた診察台、薬棚、色褪せたカルテの束。すべてに、薄い水の膜が張ったように湿っている。
奇妙なのは、その湿り方だった。長く放置された廃墟なら、埃が積もり、乾いて朽ちていくはずだ。だが、ここは違った。つい先ほどまで、誰かが水を撒いていたように、すべてが、しっとりと濡れている。床に足を置くと、ぴちゃ、と小さな音がした。
天井からは、規則正しく、水滴が落ちていた。雨漏りではない。晴れた日なのに、天井の一点から、ぽたり、ぽたりと、透明な滴が、床の同じ場所を、永遠に穿ち続けている。その下の床板だけが、黒く、深く、抉れていた。何十年も、何百年も、そうしてきたように。
この建物自体が、ゆっくりと、水に還ろうとしている。慎一は、そう感じた。
壁には、写真が一枚だけ残っていた。白衣の中年男性と、その娘らしき若い女性。二人とも、医師の顔をしている。裏返すと、万年筆の字で「水野久遠・香織」とあった。
慎一は知らなかった。だが、その名は、後に彼の運命と分かちがたく結びつくことになる。




