第38話 帰れない島
「逃げよう」
慎一は、あかねの手を取った。
「二人で、島を出よう」
「無理よ」
あかねは、首を横に振った。
「島は、一度選んだ獲物を逃さない。それに……」
あかねは、窓の外を指差した。
「見て」
慎一が外を見ると、集落の家々から、人影が出てくるのが見えた。
夜だというのに、島民たちが、ぞろぞろと歩いている。
皆、同じ方向に。
清明井のある、北の森へ。
「祭りの前夜祭が始まる」
あかねが言った。
「島民たちは、一晩中、水神に祈りを捧げる」
人影は、まるで夢遊病者のように、ゆっくりと歩いている。
その動きは、やはり同じリズムでシンクロしていた。
「あの中に、私も加わらなければならない」
あかねが、立ち上がった。
「待って」
慎一は、あかねを引き止めた。
「方法はないのか。逃げる方法は」
あかねは、しばらく黙ってから、絞り出すように言った。
「一つだけ。明日の朝、甚助さんの船が来る。祭りは夜。それまでに島を出れば、あるいは」
「君も一緒に」
あかねの肩が、びくりと跳ねた。
「私は……無理よ。体が、もう、半分以上、水になってる。島を離れたら、保たない」
「それでも、だ」
慎一は、あかねの両肩を掴んだ。膜の張りかけた、冷たい肩だった。
「君を置いていくくらいなら、逃げない」
あかねは、長いあいだ、慎一の顔を見ていた。その目から、青みを帯びた涙が、ひとすじ、こぼれた。何か言いかけて、やめて、また言いかけた。結局、出てきたのは、短い一言だった。
「……どうして、そんなに」
語尾は、声にならなかった。それから、ふっと、覚悟を決めた顔になった。
「分かった。一緒に、逃げましょう。でも――もし私が間に合わなかったら、あなただけでも、必ず」
その時、廊下から足音が聞こえてきた。
ひたひたと、濡れた足音。
「キヨさんが来る」
あかねは、慌てて窓へ向かった。
「明日の朝、港で待ってる」
そう言い残して、あかねは窓から消えた。
まるで、水のように、闇に溶けていった。
慎一は、窓を閉めた。
足音が、慎一の部屋の前で止まった。
ドアの向こうで、何かが立ち止まっている。
息を殺して、じっと待つ。
ドアの隙間から、細く、水が、染み込んできた。畳の上を、ゆっくりと、慎一のほうへ広がってくる。慎一は、身を縮めた。叫びたかったが、声が出なかった。その水が、自分のすぐそばまで来て――ぴたりと、止まった。
まるで、慎一の様子を、確かめているようだった。匂いを、嗅いでいるかのように。
慎一は、塩の包みを、握りしめた。甚助がくれた、あの塩を。その存在だけが、いまの慎一を、辛うじて正気に繋ぎ止めていた。
どのくらい時間が経っただろう。
ようやく、水音が遠ざかっていった。畳に広がった水も、すうっと、ドアの隙間へ引いていった。あとには、かすかな塩の匂いと、濡れた畳の染みだけが、残った。
慎一は、恐る恐る窓から外を見た。
月明かりの下、誰かが歩いている。
いや、歩いているというより、滑っている。
水たまりを残しながら、ゆらゆらと集落の方へ向かっていく人影。
その人影は、どこか見覚えがあった。
キヨだ。
しかし、その姿は、もはや人間ではなかった。
背中の着物を、じくじくと内側から引き裂いて、太く濁った水の帯が、何条も溢れ出していた。それは意志を持つ蛇のようにのたうち、地面をぬらぬらと濡らしながら、キヨの体を、ずる、ずる、と前へ運んでいく。一歩ごとに、足元から水が湧き、また体へ吸い戻されていく。彼女は歩いているのではなかった。水が、彼女という形を、引きずって移動させているのだ。
慎一は、その場に、棒立ちになった。逃げなければと頭では分かるのに、足の裏が、地面に貼りついて、動かない。
あの優しかったキヨが、あんなものに。
いや、もしかしたら、最初から人間ではなかったのかもしれない。
この島の住人すべてが、人間の姿をした、水の化身なのかもしれない。
慎一は、改めて決意した。
明日の朝、必ず島を出る。
あかねと一緒に。
そして、この島の真実を、世界に伝えるのだ。
民俗学を志した者として、最後の使命を果たすために。
慎一は、塩を握りしめたまま、まんじりともせず夜を過ごした。
外では、一晩中、奇妙な歌声が響いていた。
水神を讃える、古い島唄。
その旋律は、美しくも恐ろしく、聞いているだけで、魂が引きずり込まれそうになる。
慎一は、耳を塞ぎ、ひたすら朝を待った。
長い、長い夜だった。




