↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水に取られた ー八雲島水籠記ー(改訂版)  作者: 大西さん
第5章 違和感の始まり
PR
36/52

第36話 四日目の夜の異変

夕食の席は、奇妙な雰囲気だった。


老人は、ずっと独り言を呟いている。膝には、あの小さな子供服を抱えていた。船で、妻が、最後まで抱きしめていたもの。亡くした孫の、形見だろう。その編み目から、じくじくと、透明な水が滲み出し、畳に、小さな水たまりを作っている。老人は、それに気づかない。ただ、虚空へ向かって、目を細めて笑いかけていた。


「ばあさんや、もうすぐだよ。もうすぐ、会えるからねえ」


中年男性は、例の写真に話しかけている。


「美香。パパも、行くからな。一緒に、泳ごうな」


慎一は、その写真を、横目で見て――息を呑んだ。写真の表面が、青黒い、藻のようなもので、びっしりと覆われていた。海藻が、ガラスの内側から、増殖している。だが、男の目には、それが、娘の豊かな黒髪にしか、見えていないらしい。男は、その藻に、そっと頬を寄せた。濡れた藻が、男の頬に、べったりと貼りついた。


月島は、出された刺身を、生のまま、貪るように食べている。皿に醤油はつけない。ただ、白い身を指でつまんでは、口へ運ぶ。咀嚼の音が、ぴちゃ、ぴちゃ、と、濡れていた。


「もっと……もっと、新鮮なものを……」


その目は、すでに正気を失っているように見えた。前の夜まで、慎一に何かを訴えようとし、キヨに連れ戻されていた女が、みるみるうちに、これほど崩れていく。慎一は、箸を持つ手を、膝の上で握りしめた。爪が、手のひらに食い込む。それでも、震えは、止まらなかった。


そして、もっと悪いことがあった。


月島の食べる刺身が、美味しそうに、見えたのだ。


それは、あの潮魚だった。初日の夜、口に含むたび、生温かい水が湧いて、いくら食べても満たされなかった、あの銀色の魚。あのときは、得体の知れない不気味さに、箸が止まった。なのに、いまは違う。しっとりと濡れた白い身が、甘く香り、慎一を手招きしている。早く、もっと、と。口の中に、唾液とは違う、冷たいものが、じわりと湧いた。あの魚と、同じ味のするものが。慎一は、慌てて、味噌汁の椀に手を伸ばし――そこに張った水面に映る自分の顔から、目を逸らした。


昨日まで普通の人間だった者たちが、急速に変わっていく。そして、自分もまた、同じ坂を、転がり始めている。違いは、ただ、速さだけだった。


「皆さん、明日はいよいよ祭りですね」


キヨが、嬉しそうに言った。


「素晴らしい祭りになりますよ。きっと」


慎一は、あかねを見た。


彼女は、うつむいて食事をしている。


時折、慎一に視線を送るが、すぐに目を逸らす。


何かを訴えているような、悲しい目だった。


食事の途中、慎一は、はっと、気づいた。


自分の箸が、いつのまにか、止まっている。そして、右手が――箸を持ったままの右手が、皿の刺身へ、まっすぐ伸びていた。指が、つるりとした白い身に、触れる寸前だった。


「これは……」


慌てて、箸を持ち直す。指先に、魚の冷たい感触が、まだ、残っていた。心地よい冷たさだった。それが、何より、おそろしい。


自分の中の「何か」が、生の魚を、求めている。新鮮な、海のものを。腹の底で、知らない誰かが、舌なめずりをしていた。


慎一は、必死に、理性を、手繰り寄せた。


「すみません、少し疲れたので、部屋で休みます」


慎一は、食事を中断して部屋に戻った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。