第36話 四日目の夜の異変
夕食の席は、奇妙な雰囲気だった。
老人は、ずっと独り言を呟いている。膝には、あの小さな子供服を抱えていた。船で、妻が、最後まで抱きしめていたもの。亡くした孫の、形見だろう。その編み目から、じくじくと、透明な水が滲み出し、畳に、小さな水たまりを作っている。老人は、それに気づかない。ただ、虚空へ向かって、目を細めて笑いかけていた。
「ばあさんや、もうすぐだよ。もうすぐ、会えるからねえ」
中年男性は、例の写真に話しかけている。
「美香。パパも、行くからな。一緒に、泳ごうな」
慎一は、その写真を、横目で見て――息を呑んだ。写真の表面が、青黒い、藻のようなもので、びっしりと覆われていた。海藻が、ガラスの内側から、増殖している。だが、男の目には、それが、娘の豊かな黒髪にしか、見えていないらしい。男は、その藻に、そっと頬を寄せた。濡れた藻が、男の頬に、べったりと貼りついた。
月島は、出された刺身を、生のまま、貪るように食べている。皿に醤油はつけない。ただ、白い身を指でつまんでは、口へ運ぶ。咀嚼の音が、ぴちゃ、ぴちゃ、と、濡れていた。
「もっと……もっと、新鮮なものを……」
その目は、すでに正気を失っているように見えた。前の夜まで、慎一に何かを訴えようとし、キヨに連れ戻されていた女が、みるみるうちに、これほど崩れていく。慎一は、箸を持つ手を、膝の上で握りしめた。爪が、手のひらに食い込む。それでも、震えは、止まらなかった。
そして、もっと悪いことがあった。
月島の食べる刺身が、美味しそうに、見えたのだ。
それは、あの潮魚だった。初日の夜、口に含むたび、生温かい水が湧いて、いくら食べても満たされなかった、あの銀色の魚。あのときは、得体の知れない不気味さに、箸が止まった。なのに、いまは違う。しっとりと濡れた白い身が、甘く香り、慎一を手招きしている。早く、もっと、と。口の中に、唾液とは違う、冷たいものが、じわりと湧いた。あの魚と、同じ味のするものが。慎一は、慌てて、味噌汁の椀に手を伸ばし――そこに張った水面に映る自分の顔から、目を逸らした。
昨日まで普通の人間だった者たちが、急速に変わっていく。そして、自分もまた、同じ坂を、転がり始めている。違いは、ただ、速さだけだった。
「皆さん、明日はいよいよ祭りですね」
キヨが、嬉しそうに言った。
「素晴らしい祭りになりますよ。きっと」
慎一は、あかねを見た。
彼女は、うつむいて食事をしている。
時折、慎一に視線を送るが、すぐに目を逸らす。
何かを訴えているような、悲しい目だった。
食事の途中、慎一は、はっと、気づいた。
自分の箸が、いつのまにか、止まっている。そして、右手が――箸を持ったままの右手が、皿の刺身へ、まっすぐ伸びていた。指が、つるりとした白い身に、触れる寸前だった。
「これは……」
慌てて、箸を持ち直す。指先に、魚の冷たい感触が、まだ、残っていた。心地よい冷たさだった。それが、何より、おそろしい。
自分の中の「何か」が、生の魚を、求めている。新鮮な、海のものを。腹の底で、知らない誰かが、舌なめずりをしていた。
慎一は、必死に、理性を、手繰り寄せた。
「すみません、少し疲れたので、部屋で休みます」
慎一は、食事を中断して部屋に戻った。




