第34話 井戸の水の幻覚
気分転換のつもりで、慎一は、いちばん近い「結びの井戸」へ向かった。
昨日と違い、あたりに人影はない。静かな石組みのそばで、慎一は深く息を吸った。考えすぎだ、と自分へ言い聞かせながら、井戸を覗き込む。
澄んだ水面に、自分の顔が映った。
――別人だった。
もっと老いて、もっと疲れ果てた顔。目が、魚のように、白く濁っている。慎一は弾かれたように顔を上げた。心臓が、喉元で鳴っていた。恐る恐る、もう一度覗く。今度は、いつもの自分の顔が、そこにあった。
それでも、慎一は、確かめずにいられなかった。柄杓で、水を汲む。昨日は、ただ美味い水だった。見た目は、今日も同じ、透き通った水。
口に含んだ、その瞬間。
暗い海の底が、瞼の裏に広がった。
無数の人影が、ゆらゆらと漂っている。みな口を開け、声にならない叫びをあげていた。聞こえるのは、昇っていく泡の音だけ。その中に、ひとつ、見覚えのある顔があった。若い女。だが、誰なのか、思い出せない。思い出しかけると、泡が、その顔を覆い隠した。
慎一は水を吐き出した。手の震えで、柄杓が、滑り落ちた。
カラン、と乾いた音を残して、柄杓が、井戸の底へ落ちていく。
そして、見た。
底から、白い手が、何本も伸びてきた。ふやけて、ふくらんだ、無数の手。それらは柄杓を奪い合い、撫でまわし、やがて、いとおしむように、そっと、暗い底へ抱き込んでいった。
慎一は、走って、その場を離れた。




