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第29話 秘密の浜辺

島の反対側への道は、山道を越えていく必要があった。


しかし、道は整備されていて歩きやすい。


「この道、子供の頃はよく探検したなあ」


あかねが懐かしそうに言った。


「友達と秘密基地を作ったり、昆虫採集をしたり」


道の両側には、照葉樹林が広がっている。


時折、鳥の鳴き声が聞こえ、蝶が舞っている。


三十分ほど歩くと、視界が開けた。


「着いた」


目の前に、美しい砂浜が広がっていた。


集落側の浜辺より広く、人の姿もない。手つかずの自然が残る、秘密の楽園のような場所。


「ここ、島の人もあまり来ないんだ」


あかねが靴を脱いで、素足で砂浜を歩き始めた。


「だから、いつもきれいなまま」


慎一も靴を脱いだ。


砂は細かくて、足の指の間を心地よくすり抜けていく。


波打ち際まで行くと、透明な水が足を洗う。


「冷たい」


でも、気持ちいい冷たさだった。


二人は、しばらく波と戯れた。


子供の頃に戻ったような、無邪気な時間。


「ねえ、慎一くん」


波の音に混じって、あかねが言った。


「この島、気に入った?」


「ああ、すごくいいところだね」


慎一は正直に答えた。


「人も温かいし、自然も美しい。食べ物も美味しい」


「良かった」


あかねが安心したように微笑んだ。


「実は、心配してたの。都会の人には、退屈かもしれないって」


「そんなことないよ」


慎一は、水平線を見つめた。


「むしろ、こういう場所で暮らせたら幸せだろうなって思う」


あかねの顔が、ぱっと明るくなった。


「本当?」


「ああ。でも……」


慎一は言葉を濁した。


自分には、都会での研究がある。大学もあるし、将来の計画も。


でも、この瞬間だけは、そんなことは忘れていたかった。


「ねえ」


慎一は、ふと、たわいないことを聞きたくなった。


「この島を出たら――いや、もし二人で、どこか行けるとしたら。あかねは、どこに行きたい?」


あかねは、少し驚いたように慎一を見て、それから、考え込んだ。波が、二人の足を、何度も洗っては引いていく。


「……水族館」


「水族館?」


意外な答えだった。水を恐れる彼女が。


「うん。ガラス一枚隔てて、安全な場所から、水を見るの。怖くない水。閉じ込められた、優しい水。きれいな魚が泳いでて。手を伸ばしても、こっちには届かない」


あかねは、少し笑った。寂しそうに。


「ずっと、行ってみたかったの。誰かと。手をつないで、暗い館内を歩いて。クラゲの水槽の前で、ぼうっとするの」


慎一は、胸を突かれた。それは、慎一自身が、ずっと密かに憧れてきた水の姿だった。


七歳で井戸に落ちて以来、水は、慎一にとって、奪うものだった。息を、体温を、いつか命を。だが、ガラス一枚の向こうの水なら――触れられず、触れさせず、ただ、眺めるだけの水なら、自分にも、美しいと思える気がした。水を恐れる二人が、その恐れを、ガラス越しに、安全に分かち合う。そんな場所が、もし、本当にあるのなら。


「いいね」


慎一は、本心から言った。


「帰ったら、行こう。いちばん大きい水族館。手をつないで、一日中いよう。俺も、君も、水が怖い。だったら、二人でなら、怖い水も、きっと、見られる」


あかねは、答えなかった。ただ、水平線のほうを向いて、長いあいだ、黙っていた。その横顔が、泣いているように見えたが、波の飛沫のせいかもしれなかった。


その約束が、決して果たされないことを、あかねだけが、知っていた。そして――水を恐れる者同士で寄り添うというその願いこそが、慎一を、いちばん深く、島へ縛りつける鎖になることも。


夕方近くなって、二人は集落へ戻った。


帰り道、あかねが面白い場所を教えてくれた。


「ほら、あの岩」


大きな岩に、人の顔のような模様がある。


「私たち、これを『見守り岩』って呼んでたの」


確かに、優しい顔に見える。


「島を見守ってくれてるんだって、信じてた」


あかねの横顔は、島への深い愛情に満ちていた。


その横顔を見ているうちに、慎一は、ふと、大学での、ある日のことを思い出した。


ひと月ほど前。二人で、図書館にこもって資料を漁った帰りだった。古本屋の店先で、慎一は、水の伝承を集めた古い本を、偶然、見つけた。絶版の、探していた一冊。慎一が子供のように声をあげると、あかねが、おかしそうに笑った。「慎一くん、本のことになると、急に子供みたいになるね」。そう言う彼女の笑い方が、いつもの、どこか張りつめた微笑みとは違って、心から、楽しそうだった。


帰り道、急に雨が降ってきた。二人とも、傘がなかった。水を恐れる二人が、商店街のアーケードの下で、肩を並べて、雨が止むのを待った。濡れたアスファルトの匂い。あかねは、軒先から落ちる雨だれを、こわごわと、けれど、じっと見つめていた。「雨も、こうして、屋根の下から見てると、少しだけ、怖くないね」。あかねが、ぽつりと言った。慎一は、そうだね、と答えた。


何でもない、半日だった。


だが、いま思えば、あれが、二人の、いちばん幸福な時間だった。研究の話をして、笑って、雨宿りをした、ただそれだけの。あの時、自分たちは、ただの、仲のいい二人の学生だった。これから何が起きるかも知らず、ただ、その時間が、もう少し続けばいい、と思っていた。


もちろん、その時の慎一は、あかねの胸の内など、知るよしもなかった。あの半日が、彼女にとって何だったのか。それを慎一が知ることは、ついに、なかった。


「……慎一くん? どうかした?」


「いや」


慎一は、首を振った。


「なんでもない。ただ、君と島に来られて、よかったと思って」


あかねは、一瞬、泣きそうな顔をして、すぐに、笑ってごまかした。

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