第30話 三日目の穏やかな時間
三日目の朝も、快晴だった。
今日は、島の祭りの準備があるという。
「年に一度の大祭が、もうすぐなんです」
朝食の席で、キヨが説明した。
「島中総出で準備をします。もしよかったら、お手伝いいただけませんか?」
慎一たちは、喜んで手伝うことにした。
集落の広場には、すでに多くの島民が集まっていた。
男たちは櫓を組み立て、女たちは飾り付けの準備をしている。子供たちも、お手伝いと称して走り回っていた。
「おお、手伝ってくれるのか」
大工仕事をしていた男性が、嬉しそうに声をかけてきた。
「人手が多いに越したことはない。頼むよ」
慎一と中年男性は、櫓の組み立てを手伝った。
重い木材を運び、ロープで縛る。都会では経験できない、肉体労働。
しかし、不思議と楽しかった。
「そうそう、そこをしっかり結んで」
島の男たちが、丁寧に教えてくれる。
「昔はな、もっと大きな櫓を作ったもんだ」
年配の大工が、昔話を聞かせてくれた。
慎一は、櫓のそばに、真新しい木の長椅子が一脚、ぽつんと置かれているのに気づいた。まだ誰も座っていない。ほかの設えはどれも使い込まれているのに、それだけが、これから来る誰かのために、わざわざ新しく誂えられたように見えた。
「あの席は、どなたが?」
慎一が尋ねると、大工の手が、一瞬止まった。
「ああ……あれはな」
言いかけて、彼は、ふと目を逸らした。
「……まあ、祭りにはな、いろいろ決まりごとがあってな。そんなことより、こっちの結び、見てくれや。ここが肝心なんだ」
自然に、話が逸らされた。慎一は、それ以上、聞けなかった。
ただ、その時。少し離れた場所で、若い漁師がひとり、縄をなう手を、止めていた。二十歳そこそこの、陽に灼けた青年だった。彼は、慎一のほうを、いや、あの真新しい長椅子のほうを、暗い目で、じっと見ていた。眉根を寄せ、口を、固く結んで。まるで、何かに、耐えているように。
隣の年配の女が、その青年の肩を、軽く叩いた。たしなめるように。何か、低い声で囁く。青年は、はっと我に返ったように目を伏せ、また、黙々と、縄をなう手を動かし始めた。さっきまでの、暗い目を、しまい込んで。
慎一は、その一部始終を、なんとなく、見ていた。意味は、分からなかった。ただ、島中が祭りを心待ちにする中で、あの青年だけが、何か、別のものを、こらえているように見えた。気のせいだろう、と思った。
老人は、女性たちと一緒に飾り付けを手伝った。
色とりどりの布や花を使って、美しい飾りを作っていく。
「器用ですね」
女性たちが感心している。
「昔取った杵柄です」
老人も嬉しそうだ。
月島は、子供たちの面倒を見ていた。
「お姉ちゃん、これ見て」
子供たちが、貝殻や石を持ってくる。
「まあ、きれい」
月島の顔には、自然な笑顔が浮かんでいた。
子供たちは、貝殻を並べながら、手鞠歌のような節で、数え歌を口ずさんでいた。
ひとり ふたり みず の なか さんにん よにん かえらない ごにん ろくにん しずかにね ななつの いどが よんでいる
無邪気な、可愛らしい歌だった。慎一は、民俗学の習い性で、その歌詞を心に書きとめた。各地の手鞠歌や数え歌には、古い時代の記憶が、意味を失った言葉として残っていることがある。これも、そうした類だろう。「七つの井戸が呼んでいる」――島に七つの井戸があることと、符合している。興味深い、と思った。
それが何を数えているのか、慎一は、まだ知らなかった。子供たちは、歌い終えると、けらけらと笑って、また走り去っていった。
その時、近くで芋を洗っていた老婆が、ふと手を止め、子供たちの背を見送った。その横顔が、一瞬、ひどく曇った。何かを悔いるような、あるいは、これから起きることを知っている者の、諦めのような表情。慎一と目が合うと、老婆は慌てたように笑みを作り、また芋を洗い始めた。
気のせいだろう、と慎一は思った。
昼食は、みんなで作った炊き出しだった。
大鍋で作った豚汁と、おにぎり。
シンプルだが、みんなで食べると格別に美味しい。
「いやあ、久しぶりに体を動かしたら、腹が減った」
中年男性が、おにぎりを頬張っている。
「こういうのも、いいもんですね」
午後も、準備は続いた。
慎一は、神社の掃除を手伝った。
落ち葉を掃き、石段を水で洗う。
神官の伊織が、丁寧に指導してくれた。白い狩衣の老人で、物腰は柔らかいが、その目には、どこか底の見えない深さがあった。
「祭りは、神様をお迎えする大切な行事です」
伊織の真摯な姿勢に、慎一も背筋が伸びた。
「だから、心を込めて準備をします」
慎一は、学ぶ者の関心から、いくつか質問をした。祓水祭の由来、祀られる水神の性格、儀式の次第。伊織は、よどみなく答えた。同じ問いに、何百回も答えてきたかのように。
ただ、一つだけ、伊織の様子が変わった瞬間があった。
「この祭りでは、毎年、何を捧げるのですか」
慎一が何気なく尋ねた時だ。
伊織の手が、一瞬、止まった。それから、ゆっくりと、慎一の顔を見た。その目に、掃除の指導をしていた時とは違う、暗い光が宿った。
「……いちばん、清らかなものを」
そう言って、伊織は、慎一の目を、じっと見つめた。何かを言おうとして、言えずにいるような、奇妙な間があった。
「羽生さん。あなたは、いい人だ」
唐突に、伊織は言った。
「だから、言うておきます。祭りが終わる前に、本土へ帰られるのが、いい。あなたのような人は、特に」
その言葉は、世間話の体裁をとっていた。けれど、声の底に、何か、切実なものが滲んでいた。慎一は、意味を測りかねた。
「どういう……」
「いや」
伊織は、ふっと表情を戻し、また穏やかな神官の顔になった。
「年寄りの、おせっかいです。祭りは、楽しいですからな。ぜひ、最後まで」
矛盾した言葉だった。帰れ、と言い、最後まで楽しめ、と言う。慎一は、その時は、深く考えなかった。後になって、その意味を、思い知ることになる。
夕方になると、準備もほぼ整った。
櫓は立派に組み上がり、飾り付けも美しく仕上がった。
「みなさんのおかげです」
島の人々が、口々に礼を言ってくれた。
「また明日も、よろしくお願いします」
宿への帰り道、慎一は充実感を感じていた。
一日中体を動かし、島の人々と一緒に汗を流した。
これも、島の日常の一部なのだろう。
みんなで協力し、助け合い、一つのことを成し遂げる。
都会では失われつつある、共同体の温かさ。
「楽しかった?」
あかねが聞いてきた。
「ああ、すごく」
慎一は素直に答えた。
「島の人たちって、本当に温かいね」
「でしょう?」
あかねが誇らしげに言った。
「これが、私の育った島」
そう言ったあかねの声に、ほんの一瞬、誇らしさとは違う響きが、混じった気がした。何かを、詫びているような。けれど、慎一が聞き返す前に、彼女はもう、次の飾りを手に取って、楽しげに笑っていた。




