第26話 次はおまえさんかい
五つ目は、海に近い『大漁の井戸』。
漁師たちが、出漁前にここで手を清めるという。
「今朝も、漁師さんたちがお参りしていきました」
井戸の横には、大漁旗が掲げられている。
色鮮やかな旗が、海風にはためいていた。
「不思議なんです」
あかねが、旗を見上げながら言った。
「八雲島の周りの海は、どんなに不漁の年でも、必ず大漁なんです。よその島の漁師さんたちが、魚が獲れないと嘆いている年でも、ここだけは、網が破れるほど獲れる」
「それは……豊かな漁場なんですね」
「ええ。でも、年寄りたちは、こう言います。『海が豊かなのは、海に、ちゃんとお返しをしているから』って」
「お返し?」
慎一が聞き返すと、あかねは、少しだけ、口ごもった。
「……魚を獲らせてもらう代わりに、海に、何かをお返しする。そういう、古い約束があるんだ、と。具体的に何をお返しするのかは、教えてくれませんでした。子供の頃から、それを聞くと、いつも、大人たちは話を逸らすんです」
慎一は、その「お返し」が何なのかを、後に、嫌というほど思い知ることになる。豊漁も、無病息災も、長寿も――この島のあらゆる恵みは、ひとつの井戸に沈められる、よそ者の命と、引き換えだった。井戸ごとに語られる優しい言い伝えは、すべて、その一点の真実を、美しく覆い隠すための、薄布にすぎなかった。
だが、この時の慎一は、まだ、それを知らない。ただ、海風にはためく大漁旗を、美しいと思って、眺めていた。
六つ目の『長寿の井戸』は、島で一番古い井戸だった。
「千年以上前からあると言われています」
石組みは古く、一部崩れかけているが、水は今も枯れずに湧いている。
「島のお年寄りは、みんな長生きなんです」
確かに、道で会う老人たちは皆元気そうだった。
「何か秘訣があるんでしょうか」
中年男性が尋ねると、あかねは笑った。
「きれいな空気と、美味しい水と、のんびりした暮らし。それが一番の秘訣かもしれませんね」
ただ、慎一は、井戸のそばに座っていた一人の老婆の姿が、妙に心に残った。百歳は超えていそうな、皺深い老婆。彼女は、慎一たちが通り過ぎる間、ずっと、井戸の水面を覗き込んでいた。
「あれは、ナミお婆さん。島でいちばんの長生きでね」
あかねが、声を潜めて言った。
「もう、自分が何歳なのかも、覚えていないの。ただ、毎日ああして、井戸を覗いてる。『迎えが来る』って、そればっかり」
迎え。その言葉に、慎一は、なぜか寒気を覚えた。長寿とは、果たして、祝福なのだろうか。この島で、老いることもできずに、ただ「迎え」を待ち続けるのだとしたら――それは、別の名の、呪いではないのか。
老婆が、ふいに顔を上げ、慎一を見た。濁った目が、まっすぐに、慎一を捉えた。そして、歯のない口で、にっ、と笑った。
「……次は、おまえさんかい」
聞き間違いか、と思った。だが、あかねが、さっと慎一の腕を引いて、その場を離れさせた。あかねの手は、震えていた。
「気にしないで。あの人、もう、いろんなことが、分からなくなってるから」
あかねは、早口で言った。けれど、その横顔は、強張っていた。慎一は、振り返った。老婆は、また、井戸の水面を覗き込んでいた。何かを、待つように。あるいは、何かに、呼ばれるのを、待つように。
慎一は、その時、ナミ婆さんの濁った目の色が、清明井で見た水の色と、よく似ていることに、気づいた。長く生きすぎた者は、少しずつ、水に近づいていくのだろうか。そんな考えが、ふと、頭をよぎった。




