第25話 七つの井戸巡り
朝食後、一行は島の名所である七つの井戸巡りに出発した。
最初に向かったのは、集落の中心にある『結びの井戸』だった。
石組みの美しい井戸で、周りを七つの石碑が囲んでいる。それぞれの石碑には、古い文字で何かが刻まれているが、風化して読みにくい。
「これが一番有名な井戸です」
あかねが説明を始めた。
「言い伝えでは、ここで願い事をすると、良縁に恵まれるそうです」
井戸を覗き込むと、深い底に澄んだ水が見えた。
水面は鏡のように静かで、覗き込んだ自分の顔が映る。
「昔は、若い男女がここで将来を誓い合ったそうです」
老人が興味深そうに井戸を見つめた。
「なるほど、だから『結びの井戸』か」
中年男性も、写真を撮りながら頷いている。
「ロマンチックな話ですね」
「ただ」
あかねが、井戸の水面を見つめながら、付け加えた。
「結ばれた二人は、もう、島を出られなくなるそうです。どちらか一方が島を離れようとすると、残された方が、井戸に呼ばれてしまう。だから、この島の縁は、永遠なんです。離れられない縁」
「それは……愛が深いとも、呪いとも取れますね」
慎一が言うと、あかねは、ふっと、寂しそうに笑った。
「ええ。優しさと呪いは、この島では、よく似ているんです」
その言葉が、なぜか、慎一の胸に、小さな棘のように残った。優しさと呪い。歓待と、捕縛。この島で出会うすべてのものが、その二つの顔を持っているような気がした。
あかねは、それ以上、何も言わなかった。ただ、井戸の縁に置かれた、古い道祖神のような石像を、そっと撫でた。男女が寄り添う形に彫られた、苔むした石。長い年月、雨と潮に晒されて、二つの顔は、もう、見分けがつかないほど、溶け合っていた。
慎一は、なぜか水面から目を離せなくなった。ただの水面なのに、じっと見ていると、何か大切なことを忘れているような、もどかしい感覚に襲われる。
「慎一くん?」
あかねの声で我に返った。どのくらい、水を見つめていたのだろう。
「あ、ごめん。きれいな水だなって」
そう言いながら、慎一は首を振った。一瞬、水面に映った自分の顔が、別人のように見えたのは、きっと光の加減だろう。
慎一は、ゼミで学んだ調査方法に従って、井戸の横にあった石碑の文字を記録した。
おそらく、水神への祈願文だろう。後で文献と照合してみよう。
二つ目は、山の中腹にある『癒しの井戸』だった。
森の中の小道を歩いていくと、木々に囲まれた静かな場所に出た。そこに、苔むした石で作られた井戸がひっそりと佇んでいる。
「ここの水は、昔から薬水として大切にされてきました」
あかねが柄杓で水を汲んだ。
「どうぞ、飲んでみてください」
老人が最初に口をつけた。
「ああ、冷たくて美味しい」
確かに、水は驚くほど冷たく、口当たりも柔らかかった。
「なんだか、体が軽くなったような気がします」
老人が嬉しそうに言った。
慎一も水を飲んでみた。
確かに美味しい水だった。ミネラルが豊富なのか、かすかに甘みも感じる。
「この井戸には、こんな言い伝えがあるんです」
あかねが、柄杓を置きながら言った。
「昔、不治の病に侵された娘が、この水を毎日飲んでいたら、すっかり良くなったそうです。でも――」
あかねは、そこで言葉を切った。
「でも?」
「治った娘は、それから、水なしでは生きられない体になった。一日でも水を飲まないと、肌がひび割れて、苦しんだそうです。そして最後は、自分から、海へ歩いていった。もう、人ではいられなくなって」
民俗学を学ぶ慎一には、その「言い伝え」の構造が、よく分かった。病を治す代償に、人ならざるものへ近づいていく。恩恵と引き換えに何かを差し出す、典型的な交換の物語だ。各地の「異郷訪問譚」や「異類婚姻譚」に、よく似た形がある。
ただ、この島でそれを聞くと、ただの昔話とは思えなかった。自分の手のひらに残った、井戸の水の冷たさが、やけに、生々しかった。
慎一は、ノートにその伝承を書き留めた。書きながら、ふと、ペンを持つ手の指の間に、薄い水の膜が張っているのに気づいて――慌てて、手を握り込んだ。
三つ目の『豊穣の井戸』は、田んぼの近くにあった。
「ここの水を田んぼに引いて、稲を育てています」
あかねが説明した。
「だから、島の米は美味しいんですよ」
確かに、井戸の周りの田んぼは、青々とした稲が風に揺れていた。
農作業をしていた老人が、親しげに手を振ってくれる。
「今年も豊作になりそうだ」
農夫の顔は、日に焼けて皺が深いが、満足そうな笑みを浮かべていた。
四つ目の『子宝の井戸』は、小さな祠と一緒にあった。
「子供が欲しい夫婦が、ここにお参りに来ます」
周りには、小さな人形がたくさん奉納されていた。
どれも手作りで、一つ一つに願いが込められているのが分かる。藁と布で作られた、素朴な人形たち。だが、慎一は、ふと違和感を覚えた。
人形には、それぞれ、顔が描かれている。子宝祈願なら、赤子の顔が普通だろう。けれど、その顔は、どれも大人だった。男も、女も。年格好もばらばらで、実在の誰かを写し取ったように、妙に具体的な顔立ち。
そして、いちばん奥に奉納された、比較的新しい人形に目を留めた時、慎一の背筋を、冷たいものが走った。
その人形の顔は――どこか、自分に、似ている気がした。
眼鏡をかけた、線の細い、神経質そうな青年の顔。気のせいだ、と思おうとした。藁人形の顔なんて、誰にでも似て見える。けれど、一度そう見えてしまうと、もう、そうとしか見えなかった。
「これ、誰の顔を……」
慎一が聞きかけると、あかねが、やや強引に、明るい声を被せてきた。
「島も高齢化が進んでいますが、最近また子供が増えてきたんです。この井戸のおかげかもしれませんね」
あかねは、慎一の視線を、人形からそっと引き剥がすように、次の井戸へと促した。
歩き出しながら、慎一は、もう一度だけ、振り返った。奥の人形は、相変わらず、こちらを向いている。眼鏡をかけた、自分によく似た顔で。風もないのに、その藁の頭が、かすかに、頷いたように見えた。




