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水に取られた ー八雲島水籠記ー(改訂版)  作者: 大西さん
第2章 八雲島への航路
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第16話 おかえりなさい

足が桟橋に着いた瞬間、全身に電流が走るような衝撃を受けた。


この島の土地が、水が、空気が、すべてが慎一の体内の「何か」と共鳴している。


頭の中に、声が響いた。


『おかえりなさい』


誰の声かは分からない。男とも女ともつかない、老人とも子供ともつかない。あるいは、すべての声が重なっているのかもしれない。


『長い旅路、お疲れ様でした』


『やっと、帰ってきたのね』


『私たちは、ずっと待っていました』


慎一は振り返った。


甚助がエンジンをかけていた。


「三日後の午後二時、ここに迎えに来る。それまでに戻らなければ、俺は帰る」


「三日後? 一週間後じゃなかったんですか」


甚助は首を横に振った。


「状況が変わった。三日後を逃せば、次はいつになるか分からん」


「どういう意味ですか?」


甚助は、空を見上げた。


「嵐が来る。今までにない、大きな嵐が」


確かに、空の端に黒い雲が見えた。しかし、それは普通の雨雲ではないような気がした。


渦を巻き、脈動し、まるで生きているかのような雲。


「それと、もう一つ」


甚助が、真剣な表情で慎一を見た。


「もし、本当に友人を救いたいなら、水に飲まれる前に行動しろ。完全に水籠になってしまったら、もう手遅れだ」


甚助は慌てたように船を出した。


一秒でも早く、この場を離れたいかのようだった。


エンジン音が遠ざかっていく。


慎一が振り返ると、人形たちが一斉に動き出した。


ぎこちない動きで、石段を上っていく。


その列の最後尾に、あかねがいた。


彼女だけが、一瞬、振り返った。声は、出ない。だが、唇が、動いた。その形が、読めた。


『逃げて』


次の瞬間、あかねの表情が変わった。


人形のような無表情に戻り、他の人々と同じように歩き始めた。


慎一は、重い足を引きずりながら、その後に続いた。歩きながら、研究ノートに、記した。


『七月十五日 午後三時 八雲島上陸


すでに侵食は始まっている。


しかし、記録は続ける。


最後の一瞬まで。』


八雲島での三日間が、始まろうとしていた。


いや、それは本当に三日で終わるのだろうか。


甚助の船が、もう豆粒のように小さくなっている。


慎一の最後の退路が、白い波しぶきを上げて、遠ざかっていった。


その背後で、桟橋が、音を立てて、海に沈み始めた。


まるで、もう誰も逃げられないようにするかのように。


慎一は、ペンを握りしめた。


これから起こることを、すべて記録しなければならない。


それが、水と人間の境界に立つ、最後の記録者としての使命だから。


その頃、東京の大学では、木村が慎一の行方を心配していた。


「羽生の奴、昨日から連絡が取れないんだ」


木村は、篠田教授の研究室を訪れていた。


「そういえば、百合川さんも急に休学届けを出したそうですね」


篠田教授が、眼鏡を外して目頭を押さえた。


「二人とも、同じ場所に行ったのかもしれません」


「同じ場所?」


「八雲島……かつて、水野という人が消息を絶った島です」


木村の顔が青ざめた。


「まさか、羽生も……」


「心配なら、一緒に探しましょう。私にも、晴らさねばならない悔いが、あるのです」


篠田の声には、深い悔いの色があった。ずっと昔、若い頃に知り合った、津見港の医師。水野久遠という、その篤実な男から、対岸の島で人が消え続けているという話を、篠田は一度だけ、聞かされたことがあった。


民俗学者として、心のどこかが、その話に引っかかっていた。だが、論文の締め切りに追われ、深くは聞かなかった。やがて久遠自身が、その島へ渡ったきり、戻らなくなった。あの時、もっと話を聞いていれば。せめて、止めていれば。その悔いを、篠田は三十年以上、抱え続けてきた。そして、その同じことが、また、繰り返されようとしている。


木村は決意した。親友を救うため、八雲島へ向かうと。


だが、後に木村は思い知ることになる。その島は、地図のどこにも載っていないことを。津見港でいくら尋ねても、渡海丸の船長は首を振るばかりで、誰ひとり、島の存在を認めないことを。木村は、ついに、その島へ渡ることができなかった。

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