第17話 潮待庵への道
石段を上りきると、慎一の目の前に美しい集落が広がった。
それは、想像していた「過疎の離島」とはまったく違う光景だった。
白壁の家々が段々畑のように斜面に並び、赤い瓦屋根が夕日に照らされて輝いている。石畳の道は丁寧に手入れされ、家々の軒先には色とりどりの花が咲き誇っていた。ブーゲンビリアの鮮やかな紫、ハイビスカスの情熱的な赤、そして名前も知らない青い花が、潮風に揺れている。
「まるで、絵葉書みたいだ」
慎一は思わずつぶやいた。
人形のような動きをしていた人々も、集落に入ると、普通の歩き方に戻っていた。老人は杖をつきながらゆっくりと歩き、中年男性は辺りを物珍しそうに見回している。月島も、少し顔色が良くなったように見えた。
慎一は、混乱した。港で見た、あの魚のような目、人形めいた佇まいは、見間違いだったのだろうか。船酔いと、霧と、自分の緊張が見せた幻だったのか。
いや――違う、と思う一方で、その「違う」という感覚すら、急速に薄れていく。まるで、誰かに「あれは見間違いだ」と耳元で囁かれ続けているように。彼らの笑顔は、確かに穏やかだった。穏やかすぎた。見えない糸で口角を吊り上げられているような、完璧すぎる調和。島に一歩入った瞬間から、何かが、慎一の警戒心を、そっと撫でて眠らせようとしている。
その心地よさに、慎一は逆らえなかった。
「ようこそ、八雲島へ」
振り返ると、あかねが微笑んでいた。
港で見た時の、海藻のような髪も、濁った目も、もうどこにもない。艶やかな黒髪が風になびき、瞳には生き生きとした光が宿っている。肌も健康的な色を取り戻し、大学で見慣れた、あの明るいあかねがそこにいた。
「あかね……君は……」
「ごめんね、港では挨拶もできなくて」
あかねは申し訳なさそうに頭を下げた。
「実は、船酔いがひどくて。港に着く頃にはもうフラフラで、やっと立っているのが精一杯だったの」
船酔い。それで、あの様子だったのか。慎一は安堵した。
「でも、もう大丈夫。島の空気を吸ったら、すっかり元気になったわ」
確かに、島の空気は格別だった。
潮の香りに、花の甘い香り、そして土の匂いが混じり合い、深呼吸すると体の奥まで清められるような心地よさがある。都会の排気ガスに慣れた肺には、まるで天国のようだ。
「さあ、宿まで案内するね。みなさんも、きっとお疲れでしょう」
あかねを先頭に、一行は石畳の道を歩き始めた。
道の両側には、小さな商店や民家が並んでいる。魚屋の店先には、朝獲れたばかりの新鮮な魚が並び、八百屋には見たこともない南国の野菜が山積みになっていた。
「いらっしゃい」
魚屋の主人が、威勢よく声をかけてきた。日に焼けた顔に、人懐っこい笑みを浮かべている。
「今日は、いいアジが入ってるよ。晩御飯にどうだい?」
「ありがとう、田中さん」
あかねが親しげに答えた。
「でも、今日はキヨさんが腕によりをかけて準備してくれてるから」
「そうか、それは楽しみだな」
田中と呼ばれた魚屋は、慎一たちに向かって手を振った。
「ゆっくりしていってくださいね。八雲島は、いいところですよ」
その時、店先に並んだアジの一匹を、どこからか現れた痩せた三毛猫が、ひょいとくわえて駆け出した。
「こら、トラ! また盗りおったな!」
田中が、ざる片手に追いかける。だが、本気で怒っている様子はない。猫は慣れたもので、塀の上から、ちろりと舌を出すように、こちらを見下ろしている。
「あの猫、田中さんとこの魚ばっかり狙うんよ」
通りかかった老婆が、皺だらけの顔で笑った。
「もう三代も、あの家の魚を盗んどる。猫の方が、人間より、この島に長いかもしれんねえ」
他愛のない、どこの漁村にもありそうな、夕暮れの一齣だった。慎一は、つられて、少し笑った。張りつめていた何かが、その瞬間だけ、ふっと緩んだ。
道行く人々も、みな親切だった。すれ違う度に「こんにちは」と挨拶し、「ようこそ」と声をかけてくれる。子供たちは、好奇心いっぱいの目で見つめてくる。お年寄りは、優しく微笑んでいた。
ただ――子供たちの目が、慎一に向けられたあと、ほんの一瞬、すっと、潮待庵のほうへ流れるのを、慎一は見た気がした。まるで、これから何が起きるかを、幼い彼らもまた、知っているかのように。気のせいだろう、と慎一は思った。すぐに、子供たちは、きゃあきゃあとはしゃぎながら、駆け去っていった。
慎一は、大学での噂話を思い出していた。毎年人が消える、呪われた島。
だが、目の前に広がるのは、温かい人情と美しい自然に満ちた、理想的な離島の姿だった。噂のほうが、嘘のように思えた。あるいは――そう思わせることこそが、この島の、最初の仕事なのかもしれなかった。




