↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水に取られた ー八雲島水籠記ー(改訂版)  作者: 大西さん
第2章 八雲島への航路
PR
15/23

第15話 最初の犠牲者

港が近づくにつれて、生き残った乗客たちの様子がおかしくなっていった。


老人は、ずっと海を見つめていた。涙は枯れ、ただ虚ろな目で水面を見ている。時々、「ばあさん」と呟くが、その声には感情がない。まるで、魂が抜けてしまったかのように。


「もうすぐ……一緒になれる……」


老人の呟きは、次第に恍惚としたものに変わっていった。


中年男性は、また写真を見始めた。しかし、今度は違った。写真に向かって、何かを話しかけている。返事があるかのように、頷いたり、首を振ったり。


「そうか、美香。もうすぐ会えるんだな」


「パパも、水になれば一緒にいられる」


「痛くない? 本当に?」


独り言は次第にエスカレートしていく。そして、男性の目が完全に白濁した。


月島は、必死に正常を保とうとしていた。しかし、その手は止まらずに震え、時々、えづくような仕草をする。口元を押さえて、何かを吐き出すのを堪えているような。


「私は……まだ……人間……」


月島は自分に言い聞かせるように呟いていた。しかし、その声も次第に水音のような響きを帯びてきた。


慎一も、自分の変化を感じていた。


体の奥底で、何かが蠢いている。それは、自分の血液ではない何かが、血管を通って全身を巡っているような感覚。


喉も、渇かなかった。朝から何も飲んでいないのに、まったく、渇きを感じない。むしろ、体の中に水が溜まっていくような感覚がある。


それでも、慎一は記録を続けた。


甚助の三十年の苦悩、乗客たちの変化、そして自分自身の侵食。


すべてを、可能な限り客観的に記録する。


それが、最後まで人間でいるための、唯一の方法かもしれない。


港の桟橋が見えてきた。


小さな木造の桟橋で、朽ちかけているように見える。そして、桟橋の上に人影が立っていた。


いや、人影という表現は正確ではない。


彼らは確かに人の形をしていたが、その立ち姿は異様だった。全員が同じ方向を向き、同じ姿勢で、人形のように直立している。


その中に――


「あかね……」


慎一は息を呑んだ。


あかねがいた。


しかし、もはや大学で見た面影はなかった。


髪は海藻のように波打ち、肌は青白く透き通り、目は魚のように濁っている。着ている服も、体に張り付いて第二の皮膚のようになっている。


船が桟橋に着くと、老人がふらふらと立ち上がった。


「ばあさんが……呼んでる……」


老人は、夢遊病者のような足取りで船を降りた。


中年男性も続いた。写真を胸に抱いて、うつろな笑みを浮かべながら。


月島は、船室で震えていた。


「私は……まだ……」


しかし、彼女の体が勝手に動き始めた。立ち上がり、よろよろと船べりへ。


「いやっ!」


月島は必死に抵抗した。手すりを掴み、船を降りまいとする。


しかし、見えない力が彼女を引っ張っているようだった。


指が一本ずつ手すりから離れていく。


そして――


月島も船を降りた。


桟橋に降りた三人は、待っていた人影たちの中に、吸い込まれていった。やがて、全員が同じ方向を向き、同じ姿勢で、立つ。


その瞬間だけ、三人は、すでに人形になってしまったかのように見えた。――もっとも、彼らはまだ、完全に取られたわけではない。これから祭りまでの数日をかけて、ゆっくりと、この島の水に、馴染まされていくのだ。慎一が、そうであるように。


「行くか?」


甚助が慎一に聞いた。


「それとも、このまま帰るか?」


甚助の目には、わずかな希望が宿っていた。せめて一人でも、この地獄から救いたいという思い。


しかし、同時に諦めも見えた。三十年間、誰一人救えなかった現実。


慎一は、桟橋に立つあかねを見つめた。


彼女は微動だにしない。ただ、その濁った目だけが、かすかに慎一を見ているような気がした。


助けを求めているのか。


それとも、仲間に引き入れようとしているのか。


「……行きます」


慎一の答えに、甚助は深いため息をついた。


「そうか」


甚助は、しばらく黙っていた。それから、懐から、小さな布の袋を取り出した。


「これを、持っていけ」


中には、塩が入っていた。甲板に積まれていた、あの大量の塩。慎一は、なぜ船にあれほどの塩が積まれていたのか、その時、ようやく察した。甚助は、島へ渡る客に、いつも、こうして塩を握らせてきたのだ。届かぬと知りながら。


「気休めだ。昔から、塩は邪を払うという。せめて、人間でいられる時間が、少しでも延びるように」


甚助の声は、低く、湿っていた。


「わしには、止められん。船を出さんわけにも、いかん。出さなけりゃ、わしの番が、来るだけだ。だが――」


そこで、言葉が途切れた。日に焼けた皺の奥で、目が、潤んでいた。三十年前、同じ歌に妻を奪われた男の目だった。


「だが、せめて、これくらいは。あんたを、手ぶらで、渡したくない」


それが、この男にできる、精一杯の良心だった。何の役にも立たないと、本人がいちばん知っている、お守り。慎一は、その重さを、両手で受け取った。


船を、降りた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。