第15話 最初の犠牲者
港が近づくにつれて、生き残った乗客たちの様子がおかしくなっていった。
老人は、ずっと海を見つめていた。涙は枯れ、ただ虚ろな目で水面を見ている。時々、「ばあさん」と呟くが、その声には感情がない。まるで、魂が抜けてしまったかのように。
「もうすぐ……一緒になれる……」
老人の呟きは、次第に恍惚としたものに変わっていった。
中年男性は、また写真を見始めた。しかし、今度は違った。写真に向かって、何かを話しかけている。返事があるかのように、頷いたり、首を振ったり。
「そうか、美香。もうすぐ会えるんだな」
「パパも、水になれば一緒にいられる」
「痛くない? 本当に?」
独り言は次第にエスカレートしていく。そして、男性の目が完全に白濁した。
月島は、必死に正常を保とうとしていた。しかし、その手は止まらずに震え、時々、えづくような仕草をする。口元を押さえて、何かを吐き出すのを堪えているような。
「私は……まだ……人間……」
月島は自分に言い聞かせるように呟いていた。しかし、その声も次第に水音のような響きを帯びてきた。
慎一も、自分の変化を感じていた。
体の奥底で、何かが蠢いている。それは、自分の血液ではない何かが、血管を通って全身を巡っているような感覚。
喉も、渇かなかった。朝から何も飲んでいないのに、まったく、渇きを感じない。むしろ、体の中に水が溜まっていくような感覚がある。
それでも、慎一は記録を続けた。
甚助の三十年の苦悩、乗客たちの変化、そして自分自身の侵食。
すべてを、可能な限り客観的に記録する。
それが、最後まで人間でいるための、唯一の方法かもしれない。
港の桟橋が見えてきた。
小さな木造の桟橋で、朽ちかけているように見える。そして、桟橋の上に人影が立っていた。
いや、人影という表現は正確ではない。
彼らは確かに人の形をしていたが、その立ち姿は異様だった。全員が同じ方向を向き、同じ姿勢で、人形のように直立している。
その中に――
「あかね……」
慎一は息を呑んだ。
あかねがいた。
しかし、もはや大学で見た面影はなかった。
髪は海藻のように波打ち、肌は青白く透き通り、目は魚のように濁っている。着ている服も、体に張り付いて第二の皮膚のようになっている。
船が桟橋に着くと、老人がふらふらと立ち上がった。
「ばあさんが……呼んでる……」
老人は、夢遊病者のような足取りで船を降りた。
中年男性も続いた。写真を胸に抱いて、うつろな笑みを浮かべながら。
月島は、船室で震えていた。
「私は……まだ……」
しかし、彼女の体が勝手に動き始めた。立ち上がり、よろよろと船べりへ。
「いやっ!」
月島は必死に抵抗した。手すりを掴み、船を降りまいとする。
しかし、見えない力が彼女を引っ張っているようだった。
指が一本ずつ手すりから離れていく。
そして――
月島も船を降りた。
桟橋に降りた三人は、待っていた人影たちの中に、吸い込まれていった。やがて、全員が同じ方向を向き、同じ姿勢で、立つ。
その瞬間だけ、三人は、すでに人形になってしまったかのように見えた。――もっとも、彼らはまだ、完全に取られたわけではない。これから祭りまでの数日をかけて、ゆっくりと、この島の水に、馴染まされていくのだ。慎一が、そうであるように。
「行くか?」
甚助が慎一に聞いた。
「それとも、このまま帰るか?」
甚助の目には、わずかな希望が宿っていた。せめて一人でも、この地獄から救いたいという思い。
しかし、同時に諦めも見えた。三十年間、誰一人救えなかった現実。
慎一は、桟橋に立つあかねを見つめた。
彼女は微動だにしない。ただ、その濁った目だけが、かすかに慎一を見ているような気がした。
助けを求めているのか。
それとも、仲間に引き入れようとしているのか。
「……行きます」
慎一の答えに、甚助は深いため息をついた。
「そうか」
甚助は、しばらく黙っていた。それから、懐から、小さな布の袋を取り出した。
「これを、持っていけ」
中には、塩が入っていた。甲板に積まれていた、あの大量の塩。慎一は、なぜ船にあれほどの塩が積まれていたのか、その時、ようやく察した。甚助は、島へ渡る客に、いつも、こうして塩を握らせてきたのだ。届かぬと知りながら。
「気休めだ。昔から、塩は邪を払うという。せめて、人間でいられる時間が、少しでも延びるように」
甚助の声は、低く、湿っていた。
「わしには、止められん。船を出さんわけにも、いかん。出さなけりゃ、わしの番が、来るだけだ。だが――」
そこで、言葉が途切れた。日に焼けた皺の奥で、目が、潤んでいた。三十年前、同じ歌に妻を奪われた男の目だった。
「だが、せめて、これくらいは。あんたを、手ぶらで、渡したくない」
それが、この男にできる、精一杯の良心だった。何の役にも立たないと、本人がいちばん知っている、お守り。慎一は、その重さを、両手で受け取った。
船を、降りた。




