第14話 海底の街
霧が晴れ始めたのは、それから三十分後のことだった。
薄れていく白い靄の向こうに、島影が見えてきた。
八雲島。
思っていたより大きい。切り立った崖に囲まれ、緑が深い。まるで、太古の昔から変わらない原始の島のような佇まい。
しかし、近づくにつれて、慎一は異様な光景に気づいた。
島の周囲の海の色が、異常に澄んでいる。
いや、澄んでいるという表現では足りない。透明を通り越して、空気のように透き通っている。船底まで、いや海底まではっきりと見える。
「すごい透明度だ」
慎一が呟くと、甚助が苦い顔をした。
「これは、普通じゃない。昔はこんなに透明じゃなかった」
「いつから?」
「十年くらい前からかな。年々、透明度が増している。まるで、海が死んでいくみたいに」
慎一は海を覗き込んだ。
息が、止まった。
海底に、街があった。
石造りの家々、整然と並ぶ道、そして中央には大きな神社らしき建物。すべてが海底に沈んでいるが、保存状態は異常に良い。
「あれは……」
「見るな」
甚助が鋭く言った。
「あれは見てはいけないものだ」
しかし、慎一の目は海底の街から離れなかった。
よく見ると、街は無人ではなかった。
道を、人影のようなものが歩いている。ゆらゆらと、水の流れに身を任せながら。しかし、その動きは明らかに意図的だった。
ある者は家から家へと移動し、ある者は神社に向かって歩いている。何事もない日常を送っているかのように。
「昔、この島は今の倍の大きさだった」
甚助が前を向いたまま言った。
「だが、二百年前の大飢饉の時、島の東半分が海に沈んだ」
「地震か何かで?」
「いや、違う」
甚助の声が震えた。
「島民が、自ら海に沈めたんだ」
慎一は甚助を見た。
「百三十七人の島民が、手を繋いで海に入った。そして、祈りを捧げながら、島ごと海に沈んでいった」
「なぜそんなことを」
「水不足を解消するためさ。百の命をもって一つを作る。それが、水神との契約」
慎一は再び海底を見た。
人影たちが、一斉にこちらを見上げていた。
顔は見えない。しかし、確かに視線を感じる。死者の、冷たい視線を。
やがて、彼らは、手を振り始めた。
ゆっくりと、機械的に、同じ動作で。
まるで、「おいで」と誘っているかのように。
老婆が悲鳴を上げた。
「孝太! 孝太がいる!」
老婆は船べりに駆け寄った。海底を指差して、泣きながら叫ぶ。
「あそこに! あの子が手を振ってる!」
確かに、人影の中に、小さな子供のようなものがいた。他の人影と同じように、ゆらゆらと手を振っている。
老人が妻を抱き留めようとしたが、老婆の力は異常に強かった。
「孝太! おばあちゃんよ! 今行くから!」
次の瞬間、老婆は――
海に飛び込んだ。
「ばあさん!」
老人の叫び声。甚助が急いで船を止めようとしたが、老婆の姿はすでに水中に消えていた。
透明な海の中を、老婆が沈んでいくのが見える。
しかし、その動きがおかしい。
溺れているのではない。まるで、何かに引っ張られているかのように、真っ直ぐ海底へと向かっている。そして、老婆の体が、少しずつ変化していく。
服が溶け、髪が海藻のように広がり、皮膚が透明になっていく。
老婆が海底に着いた時には、もはや人間の形をしていなかった。
しかし、彼女は立ち上がった。
海底で、水中で、他の人影たちと同じように。
振り返り、こちらへ、手を振り始めた。
「ばあさん……」
老人が呆然と呟いた。その体も、ふらりと、立ち上がった。
「待ってくれ……俺も……」
慎一と月島が同時に老人を押さえた。
「だめです!」
「離せ! ばあさんが!」
老人は暴れたが、やがて力尽きて泣き崩れた。
しかし、その涙も青みがかっていた。
甚助は黙って船を進めた。
沈んだ街を後にして、港へと向かう。
しかし、慎一にはまだ見えていた。
海底で、新しく加わった人影が、嬉しそうに手を振っているのが。その周りを、他の人影たちが、歓迎するように取り囲んでいるのが。
家族が再会したかのようだった。
慎一は、研究ノートにすべてを記録した。
老婆の最期、海底の街、そして死者たちの歓迎。
手が震えていたが、それでも書き続けた。
これが、民俗学の語り部としての使命だから。
どんなに恐ろしくても、真実を語り継ぎ続けなければならない。




