第13話 霧の中の歌声
港を出ると、波が高くなった。小さな船は大きく揺れ、慎一は手すりにしがみついた。
「この辺りは『鬼の瀬戸』と呼ばれててな」
甚助が操舵しながら言った。
「潮の流れが七つに分かれて、渦を巻く。昔から船乗り泣かせの海域だ」
確かに、海の色が場所によって違って見える。深い藍色の部分と、不気味な緑色の部分がまだらに混じっている。そして、境目では小さな渦が無数に発生していた。
慎一は、ふと海面を見て、息を呑んだ。
緑色の海水の中に、何かが浮いている。最初は海藻かと思った。しかし、それは違った。
髪の毛だった。
長い、黒い髪の毛が、海中を漂っている。それも、一本や二本ではない。
まるで、何百人もの女性が髪を切って海に流したかのような量。
「見ちゃいけない」
月島が、小さく言った。
「見ると、呼ばれる」
慎一は慌てて目を逸らした。しかし、一度見てしまったものは、瞼の裏に焼き付いている。
髪の毛の先に、白い何かが絡まっていた。
指だった。人間の指が、髪に絡まって漂っている。
「ここで、昔大きな海難事故があってな」
甚助が説明した。
「村人を百人以上乗せた船が、嵐で沈んだ。それ以来、この辺りには髪の毛が流れてる」
「百年以上前の事故なのに?」
「ああ。髪の毛は腐らんらしい。ずっと海を漂ってる」
甚助の説明は、どこか嘘くさかった。百年前の髪の毛が、まだ黒々としているはずがない。
しかし、甚助の表情は真剣だった。
「いや、正確には違うな」
甚助が付け加えた。
「髪の毛は、今も増え続けている。毎年、祓水祭の後に」
慎一は理解した。水籠となった人々の髪が、海に流れ出しているのだ。
港を出て三十分ほどすると、濃い霧が立ち込めてきた。
「この霧も、昔からか」
甚助が独り言のように呟いた。
「島に近づくと必ず出る。まるで、島が客人を品定めしているようだ」
エンジン音だけが霧の中に響く。時間の感覚が曖昧になってくる。三十分なのか、一時間なのか、慎一には分からなくなった。
その時、中年男性が立ち上がった。
「聞こえる……」
男の目は、どこか焦点が合っていない。瞳孔が開き、涙が流れている。
「美香の声が……」
確かに、エンジン音に混じって、何か別の音が聞こえてきた。
歌声だった。
女の声で、どこか物悲しい旋律。言葉は聞き取れないが、古い島唄のようだった。それも、一人ではない。複数の声が重なり、不協和音を作り出している。
『深き淵より来たりて 深き淵へと還らん 水は巡りて終わりなく 我らは永遠に共にあり』
慎一にも、歌詞が聞き取れるようになった。それは、日本語のようで日本語ではない、もっと古い言葉だった。しかし、なぜか意味は理解できる。
中年男性が、船べりに向かって歩き始めた。
「美香! そこにいるのか!」
「おい、危ない!」
甚助が叫んだが、男は止まらない。
慎一は反射的に男の腕を掴んだ。
そして、手を離せなくなった。
男の腕が、異常に冷たい。そして、掴んだ部分の皮膚が、ぬるりと滑った。まるで、魚の表面のような感触。よく見ると、袖から覗く腕に、細かい鱗のようなものが生えている。
「離して……」
男が振り返った。その顔は――
慎一は息を呑んだ。
男の目が、完全に白く濁っている。そして、口元から、水が滴り落ちていた。透明な、しかし生臭い水が。
「美香が……呼んでる……」
老婆も立ち上がった。
「孝太! 孝太の声が!」
歌声は次第に大きくなり、船を取り囲むように響いてくる。やがて、歌詞が、より鮮明に聞こえてきた。
『水に取られて 帰らずに 千年の声に なるがよい 苦しみも 悲しみも みな水に流して ここにおいで』
月島は、両手で耳を塞いでいた。しかし、歌声は止まらない。むしろ、頭の中に直接響いてくるような。
慎一も、歌声に引き込まれそうになった。
美しくも恐ろしい旋律。それは、生者を死の世界へと誘う歌。しかし、どこか懐かしく、温かみすら感じる。
母親の子守唄のような……
そのとき、慎一は、奇妙なことに気づいた。この旋律を、どこかで聞いた覚えがある。学生時代、資料で目にした、本土の――確か、中部の山あいの村に伝わる、水神を祀る祭りの歌。いや、それだけではない。もっと別の土地の、水にまつわる古い歌にも、同じ節回しがあった気がする。遠く離れた、いくつもの土地に、なぜ、同じ旋律が。
思い出そうとすると、記憶は、霧の中へ溶けるように、するりと逃げていった。
「やめろ!」
甚助が、突然舵を大きく切った。
船が激しく揺れ、全員がよろめいた。
「三十年前も、同じだった」
甚助が叫んだ。
「真珠も、この歌を聞いて海に入った!」
甚助の目に、涙が浮かんでいた。
「俺は、もう誰も失いたくない!」
甚助は、エンジンの回転を最大まで上げた。
「急ぐぞ。これはよくない。死者が歌っている」
船は霧の中を突き進んだ。歌声は次第に遠ざかっていったが、慎一の耳には、まだその旋律が残っていた。
そして――ふと、気づいた。
自分も、小さく口ずさんでいたことに。
いつの間に覚えたのか。生まれる前から知っていたかのように、歌詞が口をついて出てくる。
慎一は慌てて口を閉じた。
隣を見ると、他の乗客たちも同じように歌っていた。虚ろな目で、口を開けて、同じ旋律を。その口元からも、つうっと、水が滴り始めていた。
甚助だけが、歌っていなかった。
いや、歌えなかった。
「俺は、三十年間、この歌と戦ってきた」
甚助が、震える声で言った。
「真珠の声が混じっているから。愛する妻の声が」
甚助の手が、ハンドルを握りしめていた。その手からも、水が滲み出ている。
彼もまた、限界に近づいているのだ。




