第2話 歓喜
(今日こそは、あそこにある本をとってもらうんだ!)
私メアリー・ブラウンは、寝室にある母の本棚(家にある本は全部母のもので、その棚に集められている。)の一番上の棚にある分厚い本(題名は『空と大地』)を取ることにこの数ヶ月執心している。
理由は言わずもがな、読みたいからである。
生まれてこのかた2年間、毎日人々の話し声を聞いて日本語や英語、そして少しかじっただけだったがフランス語とスペイン語とドイツ語と中国語とロシア語とポルトガル語、それぞれとの発音やイントネーション、アクセントの違いなどを比べてきた。また、母が書く文字を机によじ登って観察したり、母に背負われて見た街中の看板や掲示板の文字を解読してきた。
結果、わかったことがある。大文字・小文字があり、アルファベットと似ているがもっと記号っぽい見た目の文字で、50種類ある。英語と違って、細かい発音ごとに文字が違うのだ。ドイツ語やロシア語などと同じように巻き舌もあるが、フランス語のような独特のRはない。
こうして、文字が読めるようになったものの、転生してからまだ一度も本を読んでいないのである!
それなりに本好きだった私としては、禁断症状が出かけているので、これは喫緊の課題である!
この際、内容は何でもいい。恋愛小説でもミステリーでも冒険小説でも専門書でも、なんでもいい!
しかし、本のある所は高さ約160cmくらい。
私の身長は90cm弱。腕を伸ばしても届かないし、椅子は重くてほとんど動かせないし、唯一踏み台になりそうな木箱は納屋にある。
母に頼んだことがあるが、「だめ」の一言で終わった。
父に聞いたら、「黙れ!」と言われて投げられた。腰を打った。幸い大事はなかったが。
八方塞がりである。
でも、今日思いついた。もう一度母に頼んでみて、だめだと言われたらその理由を聞いて、私が触っても大丈夫だと思わせるんだ!
* * *
「お母さん、あそこの本読みたいから、取ってくれない?」
調理にひと区切りついたようで、椅子に座って休憩している母に声をかけた。
「だめ」
まただ。でもあきらめない!
「どうして?」
「だめなものはだめ」
なんてこったい!
「おねが〜い、汚さないし、大事に扱うよ?」
「………」
お? いけるんじゃないか??
「……。 読めないでしょうが」
「読めるもん!」
そうだった。母は私がまだ文字を読めないと思っているのだった。
「お店の看板をお母さんが声に出して読んでくれたでしょ? だから読めるようになったの! あの分厚い本の題名、『空と大地』って書いてあるよね? 違う?」
「………!」
珍しい。母が驚いている。
懐かしい。前世で私が小2の頃、新聞を読もうとした時、母は「読めないでしょうが」と言ったけれど、私が「読めるもん!」と言ってリードを読み上げたら目を丸くしていたのを思い出すなあ。いい気味だぜウッヒッヒ。
「……。 いいよ。でも、本の内容は音読してね」
「うん! もちろん! ありがとう!」
やったーーー!
歓喜!!
歓喜です!!!
歓喜といえば、前世の高校は、毎年12月に学校のホールで『歓喜の歌』を市民と一緒に演奏するのが伝統だったなあ。オーケストラ部の第二ヴァイオリンだった私も弾いたなぁ。
二学期の授業は全部第九の歌だけで、本番は歌わない私達も練習したなぁ。アルトパートは Seid umschlungen, Millionen! のあたりは特に第二ヴァイオリンと同じ動きをしていたから、アルトパートとしても第二ヴァイオリンとしても嬉しかったなあ。
今すぐ歌いたい。
Freude, schoner Gotterfunken,
Tochter aus Elysium
Wir betreten feuertrunken.
Himmlische, dein Heiligtum!
Deine Zauber binden wieder,
Was die Mode streng geteilt;
Alle Menschen werden Bruder,
Wo dein sanfter Flugel weilt.
ここ一番有名だけれど、ヴァイオリンは八分音符がとにかく難しいんだよね。
ちなみに個人的には、
Seid umschlungen, Millionen!
の部分の方が好きだ。
歓喜の余韻に浸っているうちに、母が席を立って本棚の方に歩いていくので、私もついていく。
手渡された本はかなり重かった。
椅子に走っていって座ると、表紙をじっくり見た。深い青色に、金色の文字で題名と作者名が書かれている。
「『空と大地、 チャールズ・ジョン・ホプキンス』」
母が正面の椅子に座ってこちらを見ている。どうやら私の音読を聞く気のようだ。小学校の宿題で音読ってあったなあ。結構好きだったから、1時間くらいやってたなあ。
「『その男は、雪の降る人気のない狭い路地を、フードを目深にかぶって俯き気味に歩いていた。髪は黒く艶がなく、眼は落ちくぼみ、あやしく鋭く光っていた。………』」
なかなか冒頭が暗いけれど、こういうの好き!
いい本に当たった! 好き! もう大好き!!!
母が席を立ち、調理に戻った。
その日は日が暮れるまで、私は音読し続けた。




