第78話 優等生は本を選ぶ時間に強くて、静かな場所ではやっぱり距離が近い
大型商業施設の一階は、夏休み前らしい浮ついた空気で満ちていた。
冷房の効いた広い通路。
家族連れ。
高校生同士の集まり。
イベント告知のポスター。
そして、目的地を決めているようで決めきれていない人たちの流れ。
その中を五人で歩きながら、影山涼太は最初の十分でひとつだけはっきり理解した。
やっぱり“みんなで”は安心できない。
「じゃあまず図書館フロアでいいよね?」
みずきが先頭気味に言う。
「課題本見るなら先の方が楽だと思います」
ことりが答える。
「私は本が先の方が助かります」
つばさも静かに続く。
レナは人の流れを避けながら短く言った。
「早く静かなとこ行きたい」
「ほら、全員一致」
みずきがそう言って、当然みたいに歩幅を速める。
影山はその後ろを歩きながら、ちらりとことりを見る。
今日のことりは、昨日までの制服姿とはやっぱり少し違った。
落ち着いた色合いの私服なのに、図書館フロアへ向かう話題になった瞬間だけ、ほんの少し表情がやわらぐ。
そういうところが、妙に目につく。
◆
図書館フロアは、一階の喧騒が嘘みたいに静かだった。
ガラス越しの明るい光。
低めの話し声。
本棚の整った列。
紙と空調の混ざった匂い。
「……生き返る」
レナが小さく言う。
「さっきまででどれだけ消耗してたんだよ」
影山が返すと、レナは本気で嫌そうな顔をした。
「人多いの苦手なの知ってるでしょ」
「はいはい」
みずきが笑う。
「じゃあ、ここからは課題本探しタイムね」
「効率よく分かれた方がよさそうです」
つばさが言った。
「感想文候補、資料系、参考書系で棚が違いますし」
「たしかに」
ことりがうなずく。
「じゃあ私は感想文候補を中心に見ます」
「私もその辺り見たい!」
みずきが言う。
その瞬間、影山はなんとなくことりの視線が少しだけ揺れたのに気づいた。
ほんの一瞬。
でも、みずきとことりが両方同じ棚へ行くと、たぶんかなり賑やかになる。
ことりが静かな場所を好むのも分かっている。
「……朝比奈」
「はい」
「感想文候補の棚、一緒に見るか」
自分で言ってから、少しだけ早かったかもしれないと思う。
でも、言ったあとは引っ込めにくい。
ことりは一瞬だけ目を丸くして、それから静かにうなずいた。
「はい」
その返事が、思っていたより少しだけやわらかい。
「えー、じゃあ私は?」
みずきがすぐに言う。
「藤宮さんは資料本も好きそうです」
つばさがさらっと言った。
「何そのきれいな分離」
「合理的です」
「うわ、白鳥ちゃん絶対わざとだ」
「半分くらいは」
レナが小さく吹き出す。
「今日も便利だね、その半分」
結果として、ことりと影山、みずきとつばさ、レナは人の少ない通路側から全体を見つつ自由行動、という形になった。
つまり、かなり自然な形でことりと二人になった。
◆
感想文候補の棚は、奥の方にあった。
人も少ない。
子ども向けの本棚よりずっと静かで、通路も狭すぎず広すぎない。
影山とことりは、並ぶでもなく、少しだけ斜めに位置をずらして本の背表紙を眺める。
「こういうところ、やっぱり落ち着きますね」
ことりが小さく言った。
「ああ」
「影山くんも、さっきより静かです」
「人少ないからな」
それもある。
でもたぶん、それだけではない。
ことりとこういう場所にいると、会話のテンポが自然に落ち着く。
焦って何かを言う必要がなくて、沈黙も変に気まずくならない。
祭りの神社脇でも思った。
家で最初に二人になった時もそうだった。
そして今も、同じだ。
「これ、どう思いますか」
ことりが一冊の文庫を手に取って見せる。
「少し難しいかもしれませんけど、テーマは好きです」
影山は背表紙と帯を見てから言う。
「朝比奈なら読めそうだけど、感想文にするならもう少し書きやすい方がいいかもな」
「やっぱりそうですよね」
ことりはうなずいて本を戻す。
その動きも静かで、棚に当たる音がほとんどしない。
「こういうの、慣れてるな」
影山が言う。
「何がですか」
「本選ぶの」
ことりは少しだけ考えてから答えた。
「好きだから、かもしれません」
「好きなものだと分かるんだな」
「はい」
それから、ほんの少しだけ間を置いて続ける。
「一緒にいて落ち着くものも、だんだん分かってくるのに似てる気がします」
その言葉に、影山は一瞬だけ言葉を失った。
本の話の延長のようで、でも完全にそれだけではない。
「……朝比奈」
「はい」
「今の、たぶん本の話だけじゃないだろ」
ことりは少しだけ目を伏せた。
でも、否定はしなかった。
「そうかもしれません」
静かな返事。
なのに、やけに近い。
◆
本棚の前で少しだけ沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙は重くない。
むしろ、このフロアの静けさにちょうど溶ける。
ことりは別の棚へ視線を移しながら、小さく続けた。
「家でも、少し思いました」
「何を」
「静かな場所だと、話しやすいんだなって」
それは家のことだ。
影山の部屋のことだ。
あの時間のことを、ことりもやっぱりちゃんと引きずっている。
そう思うと、妙に胸の内が落ち着かなくなる。
「……ああ」
やっとそれだけ返す。
「影山くんの家、変に静かでしたよね」
「変に、って何だよ」
「悪い意味ではなくて」
ことりは少しだけ笑った。
「ちゃんと落ち着く静かさ、というか」
「まあ、一人暮らしだしな」
「だからかもしれません」
それからことりは、少しだけ本気のトーンで言った。
「私、あの日のこと、思っていたより覚えてます」
その一言は、図書館フロアの静かな空気の中で余計に強かった。
影山は手近の本の背表紙へ一度視線を逃がす。
でも、逃がしたところでちゃんと聞こえている。
「……俺も、わりと覚えてる」
正直にそう言うと、ことりがほんの少しだけ目を細めた。
「そうですか」
「ああ」
「少し、うれしいです」
小さい声。
でも、はっきり届く。
ことりの言葉は最近、前より少しだけ真っ直ぐだ。
静かで、控えめで、でも受け取ってしまう強さがある。
影山は棚から一冊本を抜いて、ことりへ見せた。
「これ、朝比奈向きかも」
「え」
「読みやすいし、感想も書きやすそう」
ことりは本を受け取り、表紙を見てから、小さく笑った。
「ありがとうございます」
「いや」
「こういうの、やっぱり落ち着きますね」
「本選びが?」
ことりは、ほんの少しだけ首をかしげた。
「それもありますけど」
「……」
「影山くんと、こういう静かな場所で話すのも」
また、それを言う。
でも今度は、前より少しだけ自然だった。
自然だからこそ、余計に残る。
◆
通路の向こうから、みずきの少し大きめの声が聞こえてきた。
「ねえ白鳥ちゃん、それ絶対重くない!?」
「重いです。でも必要です」
つばさの落ち着いた声も混ざる。
つまり、二人の静かな時間はそろそろ終わりに近い。
ことりもそれを分かっているのか、本を胸の前へ軽く抱えながら言った。
「これ、借りるかもしれません」
「いいんじゃないか」
「はい」
それから、一歩だけ通路を戻りながら、小さく続ける。
「静かな場所だと、少しだけ素直になりやすいです」
その言葉は、独り言みたいでもあり、ちゃんと影山へ向けたものでもあった。
影山は少し遅れて、その後ろを歩き出す。
優等生は本を選ぶ時間に強くて、静かな場所ではやっぱり距離が近い。
そして、その近さは派手ではないのに、気づいた時にはしっかり心へ残っている。
みずきたちの声が近づく中、影山はことりの持つ本の表紙を横目で見ながら、今日の最初の二人時間がすでに思っていた以上に深く残り始めていることを自覚していた。




