第75話 優等生は“みんなで行く”と決まったあとで、二人になった時のことを少し考えてしまう
朝比奈ことりは、予定が決まったあとで静かに浮き足立つタイプだった。
決まる前は冷静でいられる。
必要なものを考えて、日程を確認して、無理のない範囲で動けるように段取りを組む。
けれど、いったん「行く」と決まってしまうと、そのあとの心の方が少し落ち着かなくなる。
今回もまさにそうだった。
夏休み最初の外出。
図書館併設の商業施設。
課題本の確認と、買い物と、少しの休憩。
建前はかなりきれいだ。
ことり自身も、その建前に偽りはないと思っている。
課題本は本当に見たいし、必要な文房具もある。みんなで動くのも嫌ではない。
でも、その全部の奥に別の気持ちがあることも、もう否定しにくかった。
「……困ります」
夕方、自室の机に向かいながらことりは小さく呟いた。
何が困るのかといえば、簡単だ。
“みんなで行く”と決まった瞬間から、“その中で少しでも二人になれる時間はあるだろうか”と考えてしまっている自分がいる。
少し前までなら、そういうことはもう少し後ろめたく思っていたかもしれない。
でも今は違う。
夏祭りの夜。
影山くんの家での静かな時間。
最近の放課後の会話。
それらが積み重なって、「少し二人で話したい」は、ことりの中でもうかなり自然な感情になりつつあった。
もちろん、みずきもいる。
レナもいる。
つばさもいる。
誰かを押しのけたいわけではない。
ただ、それでも少しだけ、自分の時間が欲しいと思ってしまう。
「……一緒にいられるだけでは、少し足りないんですね」
声に出してみると、その言葉は思っていたより素直だった。
少しだけ、一緒にいられるだけでは足りない。
みんなで楽しいのも本当。
でも、そのあとにほんの少しだけ二人の静かな時間が欲しくなる。
そこまで来てしまったのだと、自分でも分かる。
◆
翌朝、教室へ入ると、影山はいつもの席でプリントを見ていた。
見慣れた光景なのに、明日は“教室の外の影山くん”にも会うのだと思うと、少しだけ見え方が違ってくる。
「おはようございます」
ことりが言う。
「おはよう」
影山が顔を上げる。
その短いやり取りだけで、ことりは胸の奥が少しだけやわらぐ。
最近は、こういう朝の会話が前より自然に感じられるようになった。
家での時間を知っているからかもしれない。
生活の中の顔を少し見てしまったから、教室の中での言葉にも前より厚みが出る。
「朝比奈、今日またやわらかい」
みずきがすぐに言った。
「そうでしょうか」
「そう。最近ずっと」
みずきは笑いながら自分の席へ鞄を置く。
その笑い方の中にも、明日の予定を楽しみにしている感じがかなり出ていた。
「藤宮さんも、だと思います」
ことりが返すと、みずきは「否定しない」と素直に言った。
レナが窓際からぼそっと挟む。
「みんな分かりやすい」
「黒瀬も」
「私は別に」
「それ言うと逆にそうじゃない感じするよね」
つばさがちょうど教室へ入ってきながら、静かに補足する。
「最近の黒瀬先輩は、前置きが減りましたし」
「白鳥、朝から嫌味の精度高くない?」
「観察結果です」
いつもの流れだ。
でも、その“いつもの”の中に、明日の外出の気配が薄く混ざっている。
誰もまだ大きく話題にはしない。
なのに、全員が少しずつ意識しているのが分かる。
◆
昼休み、ことりは課題用のメモを整理しながら、何を持っていくべきかを考えていた。
読書感想の下調べ用メモ。
共同課題の一覧。
必要なら図書館で確認したい本のタイトル。
そして、もし少しだけ時間ができたら聞きたいこと。
「……聞きたいこと?」
自分で思って、少しだけ目を伏せる。
聞きたいこと、というより、話したいことだ。
影山くんの家での空気を、ことりはまだどこかで引きずっている。
なぜあんなに自然に落ち着いたのか。
なぜ“今日は客側でいてくれ”と言われたのが少しうれしかったのか。
そういう説明しにくい感情を、全部整理できているわけではない。
でも、その先で思うのはやっぱり一つだった。
明日、もし本棚の間とか、休憩の途中とか、そういう静かな場所で少しでも二人になれたら、また自然に話せるかもしれない。
その“また”が欲しいのだ。
「朝比奈」
ことりが顔を上げると、影山が自席からこちらを見ていた。
「はい」
「明日の本、何冊くらい見るつもりなんだ」
ことりは少しだけ意外に思った。
影山の方から、そこを聞いてくると思っていなかったからだ。
「三冊くらいです」
「そんなに見るのか」
「候補だけならもう少しありますけど、実際に手に取るのはそのくらいかなと」
「そっか」
その返事のあと、一瞬だけ間があいた。
何か続けるのだろうかと思っていたら、影山が少しだけ言いにくそうに続けた。
「……図書館の中、静かな方が楽なら、先にそっち回るか?」
ことりはほんの一瞬、息を止めた。
それは、かなり自然な提案だった。
みんなで行く流れの中で、でも“ことりが楽な方”を先に考えてくれている。
「……いいんですか」
「いや、別に」
影山は少しだけ視線を逸らす。
「藤宮は買い物側でも平気そうだし、白鳥も資料系なら図書館の方がいいだろ。黒瀬はたぶん人少ない方が楽だろうし」
全体のことを考えた提案だ。
でもその中に、“ことりが静かな方を好む”ことをちゃんと含めている。
「ありがとうございます」
ことりが言うと、影山は少しだけ肩をすくめた。
「礼言うほどでもない」
「私にとっては、少しだけ大きいので」
そう返すと、影山は一瞬だけ言葉を止めた。
最近、ことりはこういうことを前より素直に言うようになった気がする。
そしてそれはたぶん、影山の方も気づいている。
◆
放課後、ことりは帰り道で明日のことを考えていた。
みんなで行く。
それは本当だ。
でも、その中で少しでも二人で話せる瞬間がほしい。
図書館の棚の間。
本を選ぶ時間。
あるいは、少しだけ離れて歩く通路。
そういうささやかな時間を、もう以前ほど遠慮なく望んでいる自分がいる。
家での静かな時間が、それを少しだけ解禁してしまったのかもしれない。
好きはまだ口にできない。
でも、“もっと話したい”“もう少し近くにいたい”は、かなりはっきりしてきた。
「……最近は、一緒にいられるだけでは少し足りなくなってきたんですね」
誰もいない道で、小さく呟く。
少し恥ずかしい。
でも、嘘ではない。
優等生は“みんなで行く”と決まったあとで、二人になった時のことを少し考えてしまう。
そしてその“少し”が、前よりずっと自然に胸の中へある。
明日、静かな場所でまた少しだけ素直になれたらいい。
ことりはそんなことを思いながら、帰り道をゆっくり歩いていた。




