第73話 観察者は“夏休みだから会えない”を先回りして潰しにくる
白鳥つばさは、夏休みが始まる前からひとつだけはっきり分かっていたことがある。
何もしなければ、距離は空く。
それは別に悲観ではない。
ごく普通の事実だ。
学校という同じ箱の中に毎日いるからこそ、偶然に会える。自然に話せる。少しだけ視線を交わすこともできる。
けれど、夏休みは違う。
教室はない。
昼休みもない。
放課後もない。
図書室へ本を返しに行くついでに二年の教室をのぞく、みたいな“自然な言い訳”も薄くなる。
「……だから、先に潰しておかないと」
図書室のカウンターで返却本のバーコードを通しながら、つばさは小さく呟いた。
何を、かと言えばもちろん“会えなくなる可能性”を、だ。
祭りの夜で、自分はもう観察者の席に戻れないと知った。
影山先輩の家に行った日には、それがさらに決定的になった。
生活圏を知ってしまった。
教室の外の先輩を知ってしまった。
あの整った部屋も、静かな空気も、普通に麦茶を出してくる手つきも、全部知ってしまったあとで、「夏休みだし会えなくても仕方ない」で済ませるのは、さすがに少し違う。
「白鳥さん」
司書の先生が棚の奥から声をかけてきた。
「はい」
「読書感想の参考図書リスト、今日中にまとめられそう?」
「できます」
「助かるわ。二年生でも何人か借りに来そうだから、見やすくしといて」
二年生。
その言葉だけで、つばさの頭の中にはある人物の顔が自然に浮かぶ。
影山涼太。
つばさは一瞬だけ考えて、それから静かにうなずいた。
「見やすく、ですね」
「お願いね」
その瞬間、話す理由ができた。
いや、正確には“理由に使えるもの”ができた。
図書室の参考図書。
読書感想の本選び。
夏休みの課題整理。
全部、本当のことだ。
だからこそ強い。
◆
放課後、つばさは返却本と参考図書リストの下書きを持って二年の教室へ向かった。
廊下は少しだけ西日が差していて、夏休み前独特の浮ついた空気がある。
部活の話、補習の話、遊びの予定。
皆それぞれ、これから始まる長い休みを思って落ち着かないのだろう。
けれど、つばさの落ち着かなさは少し種類が違った。
もし今ここでうまく話せなければ、夏休みの間に接点は思っているより簡単に薄くなる。
みずき先輩はたぶん自分から動く。
ことり先輩も、静かな顔のままちゃんと理由を見つける。
レナ先輩は遠回しでも会話の続きを取りにいくだろう。
なら、自分も行くしかない。
「失礼します」
教室へ顔を出すと、やはり見慣れた四人がそこにいた。
みずきが先に気づく。
「あ、白鳥ちゃん」
「こんにちは」
ことりも小さく会釈する。
レナは窓際からちらりと視線だけ向けた。
そして影山が、つばさを見る。
「白鳥」
「先輩」
呼ばれて返すだけのことなのに、最近はその音のやり取りが前より少し近く感じる。
「また本か」
「はい。返却分と、あと参考図書の下書きです」
つばさは影山の机へ紙を置いた。
「これ、夏休み中もたぶん使います」
影山が紙を見る。
「読書感想のやつ?」
「それもありますし、課題整理にも流用できると思います」
ことりが少し前のめりになる。
「見せてもらってもいいですか」
「もちろんです」
みずきも横からのぞき込んで、「うわ、きれい」と素直に言った。
レナは席を立たないまま、でも興味はある顔をしている。
つばさはそこで、いかにも自然な調子を保ったまま続けた。
「夏休みって、何もしないと距離が簡単に空くので」
教室の空気が、そこでほんの少しだけ止まった。
みずきが先に笑う。
「うわ、白鳥ちゃん、今日もそこ真っ直ぐ来るね」
「事実なので」
つばさは静かに返した。
ことりは少しだけ視線を落として、それからうなずく。
「……そうですね」
レナも窓際から短く言う。
「分かる」
影山だけが、そこで少し困った顔をした。
「で、何が言いたいんだよ」
そこを聞くんですね、とつばさは心の中で少しだけ思う。
でも、聞いてくれるならその方がいい。
「必要なら、また家でも整理できます」
できるだけ静かに、でも曖昧になりすぎないように言う。
「図書室の本も、必要なものは私が持っていけます」
みずきが「うわ」と小さく声を上げた。
ことりが一瞬だけ目を丸くする。
レナは少しだけ目を細めた。
影山は数秒だけ黙って、それから言った。
「先回りがうまいな、おまえ」
「ありがとうございます」
「褒めてないだろ」
「半分くらいは」
みずきが吹き出す。
「白鳥ちゃん、その返し最近便利すぎ」
「便利なので」
けれどつばさの意図は、ちゃんと伝わっていると分かった。
必要なら、また家でも。
それはつまり、夏休みでも接点を消したくない、ということだ。
◆
そのあと、教室の空気は少しだけ変わった。
みずきは面白がっている。
ことりは静かに考えている。
レナは分かりやすくはしないが、確実に何かを感じている。
影山はその全部を受け止める位置に立たされている。
「でもたしかに」
みずきが言う。
「夏休みって、学校ないぶん会わないとほんと会わなくなるよね」
「はい」
つばさはうなずいた。
「だから、先に糸を残しておきたいんです」
その言い方に、ことりが少しだけやわらかく目を細める。
「白鳥さんらしいですね」
「そうでしょうか」
「かなり」
ことりは静かに言った。
「私も、近いことを少し考えていました」
その一言で、みずきが即座に反応する。
「朝比奈も?」
「はい」
「うわ、みんな考えること一緒じゃん」
「藤宮さんは、たぶんもっと前からそう思っていたんじゃないですか」
「ばれてる?」
「かなり」
レナがぼそっと混ざる。
「一番分かりやすいのは藤宮」
「黒瀬だって最近“別に”の精度落ちてるじゃん」
「うるさい」
そのやり取りの真ん中で、影山が小さくため息をついた。
「おまえらな……」
「何」
みずきが聞く。
「夏休み前からそんなに前のめりで大丈夫なのか」
すると、ことりがやわらかく答えた。
「大丈夫かどうかではなくて」
「うん」
「何もしないと、本当に少し遠くなる気がするので」
その声は静かだった。
でも、かなり本音だ。
つばさはそこでようやく少し安心した。
自分だけがそう思っているわけではない。
皆それぞれに、もう“放っておけばいい関係”ではなくなっている。
「……そっか」
影山が低く言った。
その返事は短い。
でも、雑ではない。
だからつばさは続けられた。
「先輩」
「何」
「夏休みの間、たぶん今までより“理由を持って会う”回数が増えると思います」
「予告か?」
「たぶん、確認です」
影山は少しだけ苦い顔をする。
でも、その顔の奥に完全な拒否はない。
「ほんと、最近のおまえらは」
「はい」
「分かりやすすぎる」
つばさはほんの少しだけ笑った。
「先輩も、前より気づきすぎです」
「気づきたくて気づいてるわけじゃない」
「でも、気づいてくれた方が助かります」
その一言は、思っていたより静かに深く落ちた。
教室の空気が、また少しだけやわらぐ。
みずきは面白そうに見ていて、ことりは少しだけ視線を伏せ、レナは窓の外を見たまま耳だけこちらへ残していた。
つばさは心の中で思う。
夏休みが始まる前に、これを言えてよかった。
観察者は“夏休みだから会えない”を先回りして潰しにくる。
それは少しだけずるいかもしれない。
でも今の自分には、そのくらいがちょうどいい。
会えないまま距離が空くくらいなら、少しくらい分かりやすくても、ちゃんと糸を残したいのだ。




