第72話 近寄りがたい女子は、他人の家で落ち着いた事実を認めるのに時間がかかる
黒瀬レナは、影山の家で落ち着いていた自分のことを、まだ半分くらい認めたくなかった。
“家”というのは普通、もっと気を張る場所だ。
他人の生活圏だし、距離感の線も見えにくい。
学校や駅前みたいに曖昧な公共性があるわけではない。
だから、もっと居心地が悪くてもおかしくなかった。
なのに実際は違った。
部屋の静けさも、物の配置も、影山が普通にお茶を出す感じも、全部が思ったより落ち着いた。
その事実が、今も少しだけ尾を引いている。
「……別に、部屋のせいだし」
朝、自分の部屋で髪を整えながら、レナは鏡の中の自分に向かって言った。
部屋が静かだったから。
教室みたいに人の目がなかったから。
壁際に座れて落ち着いたから。
そういう理由ならまだ、なんとか説明がつく。
でも、そのあとに続く“それだけじゃない”を完全には否定しきれないのが、一番嫌だった。
影山の家だから落ち着いた部分も、たぶん少しだけある。
それを認めるのは、まだ少し悔しい。
「……最悪」
そう呟いて、レナは鞄を持った。
◆
学校では、みずきが案の定うるさかった。
「また行きたい」だの、「今度は普通に遊びたい」だの、かなり分かりやすいことを昼休みに連発していた。
ことりは静かな顔でそれを聞きながら、完全には否定しない。
つばさはいつも通り冷静に分析していた。
その全部を見て、レナは思う。
やっぱりみんな、家の時間を引きずっている。
そして自分だけが違うふりをしても、たぶんあまり意味はない。
「黒瀬」
放課後、影山が帰り支度をしている自分へ声をかけた。
「何」
「今日、自販機寄る?」
その一言が、不意打ちだった。
「……は?」
「いや」
影山は少しだけ視線を逸らす。
「なんとなく」
その“なんとなく”が、最近の自分たちにはかなり危ない。
用事がなくても会話していい。
祭りのあと、自販機前でそういう空気ができた。
家で集まったあとも、その延長は消えていない。
レナは少しだけ黙ったあと、短く返した。
「寄る」
影山がほんの少しだけ息を抜いたように見えた。
「じゃあ」
「うん」
それだけで決まる。
それもまた、前よりずっと自然だった。
◆
校舎脇の自販機前は、夕方になると少し風が通る。
部活へ向かうやつらの声が遠くでして、でもここだけは半分くらい学校の外みたいな空気になる。
「何買う」
影山が聞く。
「いつもの」
レナはスポーツドリンクのボタンを押す。
影山は麦茶を選んだ。
「家でも麦茶だったよね」
レナがぽつりと言う。
「ああ」
「徹底してる」
「別にそんな大げさなもんじゃない」
自販機の前で並んで立つ。
沈黙はある。
でも前より重くない。
「……影山の家」
レナが、結局そこを口にした。
「うん」
「思ってたより、ちゃんとしてた」
「みんなそれ言うな」
「だって本当だし」
「おまえまで同じこと言うのか」
「別にいいでしょ」
レナは缶を開けて、一口飲んだ。
冷たい。
その温度で少しだけ言葉が出しやすくなる。
「あと」
「うん」
「……落ち着いた」
やっと、そこまで言う。
影山は少しだけ黙って、それから聞いた。
「部屋が?」
「それもある」
「それも?」
「……そこは自分でもまだよく分かんない」
レナは缶を持ったまま視線を地面へ落とした。
教室なら、もう少し雑にごまかせたかもしれない。
でも自販機前のこの場所は、やっぱり少しだけ静かで、本音が漏れやすい。
「教室だとさ」
レナが続ける。
「誰かしらいるし、うるさいし、いろいろ見られる感じするじゃん」
「まあな」
「祭りは祭りで、あれは特別すぎたし」
「うん」
「でも、あんたの部屋は変に静かで……何もごまかせない感じだった」
その言い方に、影山は少しだけ目を細めた。
「ごまかせない?」
「うん」
「何を」
そこを聞くのか、とレナは思う。
でも、聞かれたからには答えたくもなる。
「……自分が落ち着いてることとか」
「……」
「たぶん、教室より危ない」
そこまで言ってから、レナは少しだけ息を吐く。
これ以上はかなり本音だ。
でも、今の自分にはそれくらいがちょうどいい気もした。
「静かな場所の方が、あんたといると危ない気がする」
その言葉は、自分でも思っていたよりずっと近かった。
影山がすぐには返事をしない。
でも、その沈黙が嫌じゃない。
「……黒瀬」
「何」
「それ、だいぶ強いな」
「分かってる」
レナはわざとぶっきらぼうに返す。
「でも本当だからしょうがない」
影山は困ったように、でも前ほどは逃げない顔をした。
「最近、みんなそうだな」
「みんな、って雑にまとめないで」
「いや」
「私は私でしょ」
その言い方は、少しだけ鋭い。
でも、その鋭さの奥には“ちゃんと一人として見てほしい”がある。
最近、自分でもそういうふうに思う瞬間が増えた。
「……そうだな」
影山が低く答える。
その返事に、レナは少しだけ肩の力を抜いた。
近寄りがたい女子は、他人の家で落ち着いた事実を認めるのに時間がかかる。
でも認めたあと、それが“部屋のせいだけじゃない”と分かり始めると、前より少しだけ本音が近くなる。
「……今度また、課題とかあったら」
レナがぽつりと言う。
「別に、行ってもいいけど」
それはかなり遠回しだった。
でも、かなり本音でもあった。
影山は少しだけ笑ったように見えた。
「おう」
その短い返事が、妙にちょうどいい。
落ち着いたのは部屋のせい。
……たぶん、それだけじゃないけど。
レナは帰り道、その言葉をもう否定しきれないところまで来ている自分を、少しだけ持て余していた。




