第70話 優等生は、静かな部屋で一緒にいた時間ほどあとから効いてくる
朝比奈ことりは、影山の家で過ごした時間を、思っていた以上に細かく覚えていた。
大きな出来事があったわけではない。
誰かが告白したわけでもないし、手をつないだわけでもない。
課題を整理して、麦茶を飲んで、少し会話して、それぞれ帰っただけだ。
でも、その“だけ”の中に、今まで知らなかった影山涼太がたくさんいた。
台所の整い方。
冷蔵庫を開ける手つき。
机の上に自然に並べられた文房具。
自分たちを迎えるためにきちんと準備されていたプリントとお茶。
そして何より、その全部が無理なく、生活の延長としてそこにあったこと。
「……困ります」
朝の通学路で、ことりは小さく呟いた。
困る、の意味はもうかなり自分でも分かっている。
学校で見る影山くんだけなら、まだ少しだけ距離を保って考えられた。
でも今は違う。
教室の席にいる影山くんを見るたびに、同時に“あの部屋で普通に麦茶を注いでいた人”の姿も浮かぶ。
すると、好きという気持ちが少しだけ隠しにくくなる。
ことりはもともと、自分の感情を大きく前へ出すタイプではない。
静かに考えて、静かに近づいて、できるだけ相手を困らせない形を選ぶ。
それでも最近は、少しずつ変わってきている自覚があった。
祭りの夜。
少しだけ二人で話したいと思ったこと。
家で、他の人より先に静かな時間を共有してしまったこと。
その積み重ねで、自分の中の“特別”が前より輪郭を持ち始めている。
「……学校で、ちゃんと普通にできますかね」
誰に聞くでもなくそう言う。
でも、本当は普通にできなくても少しだけいいと思っている自分もいた。
◆
教室へ入ると、影山はもう来ていた。
いつも通りの席。
いつも通りのノート。
でもことりの目には、そこへ“家での生活感”がうっすら重なる。
昨日の家で見た横顔。
麦茶を出す時の動き。
机の端に手をついて資料を探していた姿。
その記憶があるだけで、今ここにいる影山が前より少し近く見えてしまう。
「おはようございます」
ことりが言う。
影山が顔を上げる。
「……おはよう」
返ってくる声はいつも通りだ。
でも、ことりにはほんの一瞬だけ間があったように思えた。
たぶん自分だけではない。
影山くんも、少しは家の時間を引きずっている。
そう思うと、胸の奥が少しだけやわらいだ。
「朝比奈、今日も機嫌いいね」
席へ座る前に、みずきがすぐに言った。
「そうですか?」
「そう。最近ずっとやわらかい」
ことりは少しだけ考えるふりをしたあと、小さく答える。
「……たぶん、悪い気分ではないので」
「うわ、出た」
みずきが笑う。
「それもうかなり素直な方だよ?」
「そうでしょうか」
「そうだよ。前の朝比奈なら、たぶん“普通です”で終わってた」
その指摘はたしかに当たっていた。
前の自分なら、もっと何でもない顔でやり過ごしただろう。
でも今は、少しくらい認めてもいい気がしている。
レナが窓際からぽつりと言う。
「家イベントのあと、全員ちょっと分かりやすい」
「黒瀬もだけどね」
みずきが返す。
「私は別に」
「その“別に”だいぶ弱い」
つばさが、ちょうど教室へ入ってきながら静かに補足した。
「おはようございます」
「白鳥ちゃんも来た」
「返却本です」
そう言いながら、つばさはことりをちらりと見る。
その視線に、少しだけ“分かりますよ”が混ざっている気がして、ことりは少しだけ苦笑した。
「朝比奈先輩」
「はい」
「家での時間、かなり残ってますよね」
あまりにも静かな直球だった。
「白鳥さん……」
「否定しないんですね」
「しにくいので」
ことりは正直に答える。
それに、否定したくない気持ちも少しあった。
◆
昼休み、ことりは自席で弁当箱を開きながら、またふと思い出していた。
影山の部屋の机の広さ。
家で使っているコップの透明な感じ。
“今日は客側でいてくれ”と少しやわらかく言われた時のこと。
あの言葉が、今になってじわじわ効いてくる。
客側。
つまり、自分を迎える側の意識がちゃんとあったということだ。
ただ場所を貸しただけではなく、“呼んだ相手”として扱ってくれた。
そう思うだけで、昨日のあの数時間の意味が、少し大きくなってしまう。
「朝比奈」
影山に呼ばれて、ことりは顔を上げた。
「はい」
「この前の委員の資料、ここの数字違ってたかも」
「え」
ことりはすぐに立ち上がり、影山の席へ寄る。
その瞬間、少しだけ動揺する。
近い。
でも、その近さに前よりあまり戸惑わなくなっている自分がいた。
影山がプリントの端を指す。
「ここ」
「……あ、本当ですね」
「修正した方がいいか」
「はい、あとで私が直します」
その会話は、ただの委員会の確認だ。
でも、みずきが横からそれを見て、にやっとする。
「また自然に寄ってる」
「藤宮さん」
「だってほんとじゃん」
ことりは少しだけ視線を伏せて、それから小さく言った。
「前より、自然に話せるようになっただけです」
その言葉は、自分でも少し驚くくらい本音だった。
影山が一瞬だけこちらを見る。
そして、ほんの少しだけ目を細めた。
「……そうだな」
その返しが、ことりにはうれしかった。
前ならもっと曖昧に流されたかもしれない。
でも今は違う。
変化を、ちゃんと同じ方向から見ている感じがする。
◆
放課後、ことりは委員会のプリントを鞄へしまいながら、少しだけ自分の気持ちを整理していた。
家での静かな時間は、あとから効いてくる。
祭りの夜みたいな強い熱ではない。
でも、そのぶん日常へ染み込む。
学校の席で顔を合わせるたびに、教室の影山くんと、あの部屋にいた影山くんが重なる。
すると、“少し話したい”が前よりもっと素直な形になる。
好きは、まだ言葉にはできない。
でも、前より少しだけ隠しにくい。
「朝比奈」
帰る支度をしていた影山が、ふいに呼んだ。
「何だ」
ことりは思わず少しだけ変な返事をしそうになって、慌てて言い直す。
「はい」
影山は少しだけ口元をゆるめた。
「今日、朝からぼんやりしてたな」
図星だった。
「……そう見えましたか」
「少し」
「考えごとをしていたので」
「課題?」
ことりは少しだけ迷ったあと、正直に答えた。
「半分くらいは」
「残り半分は?」
そこまで聞くんですね、と心の中で少し思う。
でも、聞かれた以上、以前よりはちゃんと返したい気持ちもあった。
「……この前のことです」
影山は数秒だけ黙って、それから小さく「そっか」と言った。
それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
学校の外を知ってしまうと、好きは少し隠しにくくなる。
ことりは帰り道、そう自分の中で認めていた。
そしてそれは、たぶん悪いことではなかった。




