第67話 近寄りがたい女子は、他人の家みたいな“静かな場所”だと逆に本音が漏れやすい
黒瀬レナは、玄関を開けた瞬間から少しだけ後悔していた。
いや、正確には“帰るほどではないけど、やっぱり落ち着かない”に近い。
影山の部屋は、思っていたよりずっとちゃんとしていた。
ちゃんとしているというか、生活の線が整っている。
床がきれい。
机の上も必要なものしか出ていない。
台所も見える範囲では無駄がない。
静かで、落ち着いていて、変に散らかった男子の一人暮らし感がない。
「……ほんとにちゃんとしてる」
思わず口に出た。
「だから言っただろ」
影山が少しだけ呆れたように言う。
「いや、でもこれは」
レナは靴を脱ぎながら部屋の中を見る。
みずきはすでにテンション高めに座っている。
ことりはその横で落ち着いてプリントを整えている。
この二人がいる時点で、普通の勉強会ではない空気はもう完成しかけていた。
「こんにちは」
ことりが静かに会釈する。
「……こんにちは」
レナも返す。
「黒瀬、遅かったね」
みずきが言う。
「別に」
「出た」
「うるさい」
でも、レナは自分でも分かっていた。
今の“別に”はいつもほど鋭くない。
むしろ部屋へ入った瞬間から、少しだけ別の感情が勝ち始めている。
落ち着く。
それが最初に来た感想だった。
静かだ。
外のざわつきも、学校の教室の空気も、一歩ドアをまたいだだけで少し遠くなる。
自分の家ではない。
なのに、思っていたより呼吸がしやすい。
「座れば?」
影山が言う。
「ん」
レナは机の反対側、少し壁に近い位置へ座った。
背中側に壁があると、それだけで少し安心する。
「黒瀬って、こういう位置好きそうだよね」
みずきが言う。
「何」
「部屋の端っこ」
「落ち着くから」
「分かる気もする」
ことりが小さく言った。
そのやり取りを聞きながら、影山が少しだけレナを見る。
その視線に気づいて、レナは少しだけ顔をしかめた。
「何」
「いや」
「その“いや”やめて」
「落ち着いてるなと思って」
その一言に、レナは一瞬だけ黙った。
見抜かれている。
しかもかなり自然に。
「……こういう部屋、嫌いじゃないだけ」
ぶっきらぼうに返す。
でもそれはたぶん、本音だった。
◆
課題整理は、一応進んだ。
ことりがまとめる。
みずきが口を挟みながら書く。
レナは最初こそ黙って見ていたが、途中から「そこ違う」とか「それ先にこっちやった方が早い」と短く言うようになった。
すると意外にも、レナの指摘はかなり正確だった。
「黒瀬、こういうのちゃんと見るよね」
ことりが言う。
「まあ」
「細かいところに気づくの、助かります」
「朝比奈に言われると変な感じ」
「褒めてます」
「分かる」
みずきが笑いながら入ってくる。
「レナって、黙ってるときほど頭回ってるタイプだし」
「黙ってるとき“ほど”は余計」
そのやり取りを、影山は少しだけ離れて見ていた。
レナがこの部屋で思ったより落ち着いている。
それはかなり意外だった。
祭りの夜、自販機前で話した時もそうだった。
レナは、静かな場所にいると少しだけ本音が近くなる。
学校の中だと、教室という場所そのものに人の目がある。
でもここは違う。
他人の家。
自分の家ではないのに、教室より静かで、人の視線も少ない。
だからなのかもしれない。
「影山」
レナが急に呼ぶ。
「何」
「これ、もう一枚ない?」
プリントを指す。
「ああ」
影山が立ち上がって、机の横のファイルから予備を探す。
「そこ、すぐ出るの」
レナが言う。
「整理してあるからな」
「……ほんとに一人で回してる部屋って感じ」
その言い方が、妙にやわらかい。
「悪い意味じゃないから」
レナは付け足した。
「分かってる」
「ならいいけど」
その短いやり取りのあと、少しだけ沈黙が落ちた。
でも、重くない。
むしろ、この“何も言わなくても落ち着く”感じこそが、レナにとってはかなり珍しかった。
◆
休憩がてら、影山が麦茶を注ぎ直す。
ことりは自然にコップを受け取る。
みずきは「ありがと」と明るく笑う。
レナは一瞬だけ手を伸ばすタイミングを迷って、結局黙って受け取った。
「黒瀬」
影山が言う。
「何」
「さっきからだいぶ静かだな」
「そう?」
「そう」
レナは麦茶を一口飲んでから、少しだけ視線を逸らした。
「……落ち着くから」
出た言葉が、そのまますぎて自分でも少し驚く。
でも、今さら引っ込めたくもなかった。
「この部屋」
続けて言う。
「静かだし、余計な音ないし」
「学校と違う?」
「全然違う」
それは本音だった。
教室は嫌いではない。
でも常に誰かがいて、常に何かを見られている感じがある。
ここは違う。
影山の家なのに、自分にはその静けさが少しだけちょうどいい。
「……変な意味じゃなくて」
レナが付け足す。
「分かってる」
「ほんとに?」
「そういうの、最近の黒瀬は前置きで分かる」
「それはむかつく」
「でも事実だろ」
みずきが横から笑う。
「レナ今日かなり本音寄りだし」
「うるさい」
ことりは少しだけやわらかく言った。
「でも、なんとなく分かります」
「何が」
「黒瀬さんがこの部屋だと少し落ち着いて見えること」
レナは一瞬だけことりを見る。
浴衣の時のことりとはまた違う。
今のことりは、静かなまま、自分にも自然に言葉を向けてくる。
「……そう見えるなら、そうなんじゃない」
素直ではない返し。
でも否定しなかった時点で、かなり本音だ。
影山はそこで、少しだけ目を細めた。
「黒瀬って、やっぱり静かな場所の方が合うんだな」
その言い方に、レナは少しだけ息を止める。
分かってしまうのか。
そこまで。
「……あんた、ほんと普通にそういうの言うよね」
「またそれか」
「またそれ」
でも今回は、前より少しだけ困り方がやわらかい。
静かな部屋だと、こういうやり取りすら少し穏やかになる。
◆
インターホンが鳴ったのは、その数分後だった。
みずきがぱっと顔を上げる。
「来た?」
ことりも手を止める。
レナは時計を見る。
「白鳥先輩でしょうか」
つばさのことを“白鳥先輩”と呼びかけそうになって、自分で妙な感じがした。
つばさは後輩だ。
でも今この場では、全員が少しだけ同じ土俵にいる気もする。
「たぶんつばさだな」
影山が立ち上がって玄関へ向かう。
ドアが開く音。
少しだけ外の空気が入る。
レナはその瞬間、ふと今の部屋の温度を意識した。
静かで、落ち着いていて、でも完全に平穏ではない。
自分はこの空間に、思ったよりちゃんとなじんでしまっている。
「……ほんとに来ちゃったんだな」
小さく呟く。
「何が?」
みずきが聞く。
「こういうの」
レナは短く答えた。
「学校でも祭りでもない、影山の家で、こうやって一緒にいるの」
ことりはその言葉に、静かにうなずいた。
「そうですね」
「想像より、変」
「嫌ですか?」
ことりが聞く。
レナは少しだけ考えて、それから首を横に振った。
「……嫌ではない」
その答えが、自分でも少し意外だった。
近寄りがたい女子は、他人の家みたいな“静かな場所”だと逆に本音が漏れやすい。
今の自分はたぶん、それをかなり分かりやすく証明してしまっていた。




