第59話 お弁当を一口分けるだけで、教室の空気が変わるのは恋愛の初期症状だと思う
昼休みというのは、クラスの空気がいちばん無防備になる時間だ。
影山涼太は、朝の時点ではまだそこまで深刻に考えていなかった。
昨夜のみずきからのメッセージ。
明日の弁当なに予定?
あれはたしかに嫌な予感がした。
でも、予感は予感だ。
せいぜいまた「今日のお弁当なに」から少し発展するくらいだろう、と高をくくっていた。
甘かった。
「影山」
四時間目が終わってすぐ、みずきがいつもの勢いで席へ来る。
今日はやけに機嫌がいい。
「何だよ」
「今日のお弁当」
「始まったな」
「何?」
「いや、なんでもない」
「で、何?」
影山は小さく息を吐いた。
「生姜焼きと卵焼き」
「やっぱり」
みずきが満足そうに笑う。
この“やっぱり”の時点でもう怪しい。
「……何がやっぱりなんだよ」
「いや、昨日の感じだとそうかなって」
「エスパーか」
「影山の弁当の傾向、最近ちょっと分かってきた」
それはあまりうれしくない情報だ。
影山が弁当袋を机へ出そうとした、その時だった。
「ねえ」
みずきが少しだけ声を落とす。
「何」
「一口ちょうだい」
周囲の音が、ほんの一瞬だけ遠くなった気がした。
「……は?」
「一口」
「聞こえてる」
「じゃあ返事してよ」
影山は本気で止まった。
それはだめだろう。
いや、何がどうだめなのか説明しにくいが、教室で、それも昼休みのど真ん中で女子に弁当を一口ちょうだいと言われるのは、いろいろな意味で危険だ。
「おまえな」
「何」
「普通に言うなそういうの」
「普通に欲しいから普通に言ってるの」
「いやでも」
「やだ?」
みずきが少しだけ首をかしげる。
その聞き方が妙にずるい。
冗談っぽいのに、ちゃんと本気だ。
「……やじゃないけど」
言ってから、自分で失敗したと思った。
みずきの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ決まりじゃん」
「決まりじゃない」
「影山、今ちゃんと“やじゃない”って言ったよ」
「言ったけど」
「じゃあ一口」
距離が近い。
近すぎる。
そこへ、静かな声が割り込んだ。
「藤宮さん」
ことりだった。
自席で弁当箱を広げかけていたことりが、少しだけ困ったようにこちらを見ている。
「それは、かなり近いと思います」
「えー」
みずきが振り向く。
「でも、一口くらい普通じゃない?」
「普通かどうかで言えば……人によると思います」
ことりの言い方はあくまで穏やかだ。
でも、その穏やかさの中に“それを今ここでやるんですか”がかなり入っている。
みずきは少しだけ笑った。
「朝比奈、気になるんだ」
「……影山くんが困るのは分かるので」
その返し方も、もうかなりことりらしい。
直接「私も気になります」とは言わない。
でも、“影山くんが困る”という形でちゃんと自分も入ってくる。
影山はそこで、本格的に頭が痛くなってきた。
たかが一口。
いや、たかが一口ではないのかもしれないが、とにかく弁当の一口でここまで空気が変わるのは理不尽すぎる。
◆
「じゃあ、朝比奈も欲しい?」
みずきが言った。
「え?」
「一口」
ことりは本気で目を丸くした。
「い、いえ、私は……」
「でしょ?」
みずきが影山へ向き直る。
「朝比奈も動揺するくらいには、これはイベントなんだよ」
「自分でイベント化するな」
影山が言うと、みずきは楽しそうに笑った。
そこへ窓際から低い声が飛ぶ。
「何それ、朝からうるさいと思ったら」
レナだった。
「黒瀬、聞いて」
みずきがすぐ食いつく。
「影山の弁当、一口もらおうとしたら空気がやばい」
「当たり前でしょ」
「え、やっぱそう?」
「そうでしょ」
レナは立ち上がってこちらへ来る。
その時点で、状況がさらに悪化している気しかしない。
「影山」
「何だよ」
「断ればいいじゃん」
「それは」
断りきれないから困っているのだ。
レナはその顔を見て、少しだけ目を細める。
「……断りにくいんだ」
「うるさい」
「へえ」
その“へえ”が嫌だ。
しかもレナは、そのまま弁当箱の中身をのぞき込んで、ぽつりと言う。
「おいしそう」
「黒瀬までやめろ」
「いや、別に一口欲しいとは言ってない」
「言ってないけど雰囲気がそっち寄りなんだよ」
みずきが吹き出す。
「何それ」
「もう全員ちょっと寄ってるだろ!」
その声が思ったより大きくなってしまい、周囲の何人かがこちらを見る。
しまった、と思った時には遅かった。
「影山のとこ、何か楽しそうじゃん」
クラスメイトの男子がそんなことを言う。
他の席からも、ちらちら視線が集まってくる。
やめろ。
頼むから弁当の一口問題をクラスイベントにするな。
◆
そこで、教室の入口からつばさが現れた。
「失礼します」
「来た」
影山が思わず言うと、つばさは本を抱えたまま少しだけ首をかしげた。
「何かありましたか」
「ありました」
みずきが即答する。
「白鳥ちゃん、聞いて」
「はい」
「影山の弁当一口問題」
「言い方」
影山が突っ込むが、もう遅い。
つばさは数秒で状況を把握したらしく、教室の空気を一度だけ見渡してから、静かに言った。
「なるほど」
「何がなるほどだよ」
「お弁当の共有は、思っている以上に距離感が出るので」
的確すぎた。
ことりが少しだけ視線を落とし、みずきは「ほらー」と得意そうにし、レナは「でしょ」という顔をする。
「白鳥ちゃん、それ分析として出す?」
みずきが笑う。
「事実なので」
つばさは平然と答える。
「食べ物を一口もらう、という行為はかなり親密寄りです」
「やめろ、言語化するな」
影山が本気で言うと、つばさは少しだけ笑った。
「でも、先輩も断っていないですよね」
「……それは」
「つまり、完全に嫌ではない」
もうやめてくれ。
どうしてこの後輩は、余計なところばかり正確に拾うのか。
「で、結局どうするの?」
みずきがまた核心へ戻す。
教室の空気が、ほんの少しだけ固まる。
ことりも。
レナも。
つばさも。
それぞれ立ち位置は違うのに、今この瞬間だけは同じ方向を見ている。
影山の弁当を、一口分けるのかどうか。
「……一口だけな」
観念してそう言った瞬間、教室の空気が一段階だけ動いた。
「やった」
みずきが素直に笑う。
「うわ、本当に行くんだ」
レナが言う。
ことりは少しだけ口元を押さえた。
つばさは興味深そうに見ている。
「おまえらな」
影山は本気で言った。
「もう少し普通の反応しろ」
「いや、無理でしょ」
みずきが返す。
「だって今の、普通じゃないし」
たしかにそうなのかもしれない。
でも、だからといってここまで教室の空気を揺らす必要があるのか。
◆
問題は、一口の渡し方だった。
「箸どうする?」
みずきが聞く。
「知らん」
「えー」
「えー、じゃない」
そこへことりが、少しだけためらいながら言った。
「……取り箸、あります」
「何で持ってるんだよ」
影山が思わず聞くと、ことりは少しだけ頬を赤くした。
「たまたま、です」
「優等生すぎる」
みずきが笑う。
結局、ことりが持っていた小さな予備の箸で、生姜焼きをほんの一切れだけ取る流れになった。
みずきは妙に真面目な顔でそれを受け取る。
「……そんな改まるな」
「だって今、教室中の空気ちょっとこっち来てるし」
それはたしかにそうだった。
周囲の何人かが明らかに見ている。
もう地獄だ。
みずきは生姜焼きを口に入れて、数秒、もぐもぐしてから顔を上げた。
「おいしい」
「それはよかったな」
「普通においしい」
「だからそれはよかった」
「彼氏力高い」
「やめろ」
その一言で、近くの席から小さく笑いが漏れる。
レナが呆れたように言う。
「ほら、やっぱりそうなる」
「何が」
「空気が一段階変わる」
つばさも静かに補足する。
「一口でここまで揺れるのは、もうかなり初期症状ですね」
「何のだよ」
影山が聞くと、つばさはほんの少しだけ口元をゆるめた。
「恋愛の、です」
ことりが一瞬だけまばたきし、みずきは「うわー、白鳥ちゃんそれ言うんだ」と笑い、レナは露骨に目を逸らした。
影山は本気で額を押さえたくなった。
ただ弁当を一口分けただけだ。
それなのに、どうしてここまで話が大きくなるのか。
◆
だが、そこで終わらなかった。
みずきが食べ終えたあと、ことりが少しだけ迷うように言った。
「……影山くん」
「何」
「その、生姜焼き、確かにおいしそうでした」
「朝比奈まで?」
みずきが驚いたように言う。
ことりは少しだけ視線を落としてから、静かに続けた。
「私は、一口欲しいというより……味見、くらいなら」
「同じだろ」
レナが即座に言う。
ことりは少しだけ困ったように笑った。
「そうかもしれません」
「うわ、優等生が寄せてきた」
みずきが言う。
影山は本気でどうすればいいのか分からなくなった。
でも、ここでことりだけ断るのも、たぶん違う。
そういう空気だ。
「……ほんとに味見な」
影山が言うと、ことりは小さく「はい」とうなずいた。
また取り箸でほんの少しだけ生姜焼きを取る。
ことりは静かに口へ運んで、それからほんの少しだけ目を細めた。
「おいしいです」
「……そうか」
「生姜がちょうどいいです」
感想がちゃんとしている。
みずきが横で笑いをこらえている。
レナは少しだけため息をついた。
「何これ」
「分からない」
影山が本気で返す。
「じゃあ私もって流れになったらどうするの」
「ならないでほしい」
だが、その時点でレナ自身が少しだけ弁当箱を見てしまっているのを、つばさは見逃さなかった。
「黒瀬先輩」
「何」
「気になってますよね」
「気になってない」
「いちばん分かりやすいタイミングで見ましたよ」
「……白鳥ほんと嫌い」
「光栄です」
その会話にまた小さな笑いが起きる。
でも、その笑いの中でクラスメイトの女子がぽつりと言った。
「影山の周り、最近距離近くない?」
その一言は、思っていた以上に教室の空気を止めた。
みずきの笑顔がほんの少しだけ静かになる。
ことりが視線を伏せる。
レナが小さく息を止める。
つばさは、まるでその言葉を待っていたみたいに静かだった。
影山はそこで、ようやく本当に理解する。
弁当を一口分けるだけで、教室の空気が変わる。
それはたぶん、冗談ではなく何かの初期症状だ。
しかもその“何か”を、もう周りまで薄々感じ始めている。
「……最悪だ」
思わず小さく言うと、みずきが横で笑った。
「でも、ちょっとだけ楽しいでしょ?」
その問いに、影山はすぐには返せなかった。
返せなかった時点で、もう答えは半分出ているのかもしれなかった。




