第57話 観察者は“次の特別”が来る前に、日常の中で場所を取りにくる
白鳥つばさは、自分が“待つ側”ではなくなり始めていることに、もう気づいていた。
少し前までの自分なら、特別なイベントが来るのを外側から見ていたはずだ。
文化祭。
夏祭り。
誰かが誰かに近づくきっかけになりそうな場面。
そういう“何かが起きる日”を、つばさは少し離れた場所から観察して、静かに記録する側だった。
でも今は違う。
祭りの夜に、影山先輩の隣へ自分から立った。
花火の下で、“今は観察じゃなくてよかった”と口にしてしまった。
あれは、かなり決定的だったと思う。
観察者の席へ完全に戻るには、もう遅い。
「……それなら、次は日常の中で取らないと意味がないんですよね」
昼休み前の図書室で、つばさは返却棚を整えながら小さく呟いた。
次の特別を待つのではなく、その前に日常の中で自分の場所を作る。
そうしないと、また“イベントの時だけ近い後輩”で終わってしまう気がする。
ことり先輩は、もうかなり自然に時間を取っている。
委員会の連絡という名目はあっても、その中にちゃんと“少し話したい”が混ざっている。
みずき先輩はもっと分かりやすい。
放課後のコンビニ、ちょっとだけ一緒にいたい、最初から言う。
そういう言葉をもう躊躇なく前へ出し始めている。
レナ先輩は相変わらず遠回しだ。
でも、その遠回しの精度が落ちた。
“何でもない会話”が欲しいことを、ちゃんと口にするようになってきた。
では自分はどうか。
観察者という言葉を半分ほど手放したところで、日常の中ではまだ少し遅れている気がする。
なら、今日はそこを一歩進めたい。
「白鳥さん」
司書の先生がカウンターの奥から呼ぶ。
「はい」
「この返却分、二年の教室に持っていってくれる?」
つばさは一瞬だけ手を止め、それから小さくうなずいた。
「もちろんです」
理由ができた。
でも今日は、その理由の中へちゃんと自分の気持ちも混ぜるつもりだった。
◆
二年の教室へ向かう廊下は、昼休み前特有の少し浮いた空気があった。
教室の中からは話し声がする。
その中に、みずき先輩の少し大きめの声と、影山先輩の呆れたような返しが混ざっているのが聞こえた。
やはり、いつもの感じだ。
でも今のつばさは、その“いつもの感じ”を外から眺めるだけで終わりたくない。
「失礼します」
教室へ入ると、何人かがこちらを見る。
みずきが「来た」と笑い、ことりが小さく会釈し、レナは窓際からちらりと視線を向ける。
そして影山が、つばさを見る。
「ああ、白鳥」
その“ああ”の響きだけで、自分がこの教室で前より自然な存在になっていることが分かる。
「返却本です」
つばさは本を差し出した。
影山が受け取りながら言う。
「ありがと」
「いえ」
ここまではいつも通り。
でも今日は、その先へ一歩進めたい。
「先輩」
「ん?」
教室の空気が少しだけこちらへ向く。
つばさは、その視線ごと受け止めるつもりで言った。
「今日、図書室の整理、そんなに急がなくていいので」
「へえ」
「少しだけ、先輩と話す時間が欲しかったです」
教室の空気が、ほんの一瞬だけ静かになる。
みずきが目を丸くし、ことりが静かにまばたきをし、レナは本気で“そこまで言うんだ”みたいな顔をした。
影山は一拍遅れて返す。
「……教室で言うのか、それ」
つばさは少しだけ肩をすくめた。
「たまには、と思って」
「たまに、で済むやつか?」
「今のところは」
そこへ、みずきが一番に反応した。
「白鳥ちゃん、今日かなり前出るね」
「はい」
つばさは素直に答える。
「祭りのあとで、少し考えたので」
「何を?」
「イベントの時だけ近いのは、少し違うなと」
ことりが、その言葉にやわらかくうなずく。
「……それは、分かります」
レナは窓際から短く言った。
「静かな顔して、けっこう強いこと言うよね」
「先輩方に比べたら、まだです」
つばさが返すと、レナは「その返し方も前よりずるい」とぼそっと言った。
影山は本を机へ置いてから、小さく息を吐いた。
「で、何話すんだよ」
その問いに、つばさは少しだけ考える。
ほんとうのところ、明確な話題なんてない。
ただ、少し話したい。
それだけだ。
「特別なことは、たぶんそんなに」
「だったら余計に教室で言うな」
「でも、日常の中で言いたかったので」
つばさはそう答えた。
祭りの夜ではなく。
図書室の静かな非日常でもなく。
ただの昼休み前の教室で、それを言うことに意味があると思った。
「……分かったよ」
影山が少しだけ困った顔で言う。
「昼休み、少しなら」
その返事に、つばさはほんの少しだけ息をついた。
「ありがとうございます」
「ほんと最近、おまえら遠慮なくなったな」
影山がぼやくと、みずきが即座に言う。
「祭りのあとだしね」
ことりも静かに続ける。
「前より、ごまかしにくくなったのかもしれません」
レナは視線を外しながらぼそっと言った。
「ごまかしてるの、だいたい影山だけだけど」
「ひどいな」
「事実」
そのやり取りに、つばさは少しだけ笑った。
やっぱり、教室の中の空気は変わっている。
そしてその変化の中へ、自分もちゃんと入り込めている気がした。
◆
昼休み、つばさは図書室ではなく、校舎裏のベンチにいた。
直射日光を少しだけ避けられる木陰。
人通りは少ないが、完全に二人きりになりすぎない場所。
こういう場所の選び方は、たぶん無意識にうまくなってきている。
少し遅れて、影山が来た。
「ほんとに来た」
つばさが言うと、影山は少しだけ呆れたように言う。
「呼んだのおまえだろ」
「そうですけど、少しだけ半信半疑だったので」
「なんでだよ」
「先輩、最近かなり忙しそうなので」
みずき。
ことり。
レナ。
そして自分。
それぞれが、少しずつ時間を取りに来る。
その事実を、つばさはよく分かっていた。
「忙しいけど」
影山がベンチの端へ腰を下ろす。
「おまえが教室であそこまで言ったら、さすがに来るだろ」
「それはよかったです」
「よくない気もするけどな」
つばさは小さく笑った。
昼の光は明るい。
祭りの夜とは違う。
でも、その違いが今日はむしろ大事だった。
「先輩」
「何」
「祭りの夜のあと、少しだけ焦りました」
影山がこちらを見る。
「焦った?」
「はい。あの夜は特別でした」
「うん」
「でも、特別な夜にだけ近づけるなら、たぶんそれは長く続かない気がしたので」
つばさは自分の膝の上で指を軽く組んだ。
「次の特別を待つ前に、日常の中で一度ちゃんと話したかったんです」
影山は、すぐには返事をしなかった。
でも、その沈黙は拒絶ではない。
「……白鳥って、やっぱり考えてることがちょっとずるいな」
やがて、そう言った。
「ずるいですか」
「順序立てて来る感じ」
「勢いで行くタイプではないので」
「知ってる」
その“知ってる”が、つばさには少しうれしい。
自分のことをちゃんと見て、理解したうえで返している言葉だと分かるからだ。
「でも」
影山は続ける。
「そうやって考えて来るなら、もう観察者って言い方はだいぶ無理があるだろ」
つばさは少しだけ目を伏せた。
その通りだと思う。
もう自分は、ただ見ているだけの後輩ではいられない。
「……分かっています」
「うん」
「たぶん、かなり前から」
祭りの夜だけではない。
図書室での会話。
返却本を届けるたびの短いやり取り。
教室の中で見る、影山の困った顔や優しい返し。
そういうものが積み重なって、自分はもう十分に当事者側へ足を踏み入れていた。
「だから今日は」
つばさは顔を上げた。
「“話す理由”より、“話したい”を優先してみました」
それはかなり本音だった。
影山はその言葉を聞いて、少しだけ息を吐く。
「……最近ほんと、おまえらそういうの増えたな」
「先輩も変わりました」
「何が」
「前よりちゃんと受け取るようになりました」
影山は少しだけ苦い顔をする。
「それ、ことりにも言われた」
「みずき先輩にも言われてそうです」
「言われた」
つばさは思わず笑った。
やっぱり、みんな同じことを感じているのだ。
影山もまた、祭りの夜を越えて少し変わった。
「……先輩」
「ん?」
「今日、来てくれてうれしかったです」
「白鳥」
「はい」
「最近おまえ、急に本音寄りになるよな」
「もう隠してもあまり意味がないので」
「そうかもしれないけど」
影山は少しだけ困ったように笑う。
その困り方は、前より嫌ではない。
ちゃんと受け取ったあとの困り方だと分かるから。
◆
昼休みの終わりが近づいてきた。
戻らなければならない。
でも、その短さがむしろ今日の時間には合っている気がした。
「そろそろ戻りますか」
つばさが言う。
「ああ」
二人で立ち上がる。
校舎へ向かう途中、つばさは少しだけ空を見た。
青くて、普通の昼の空だ。
花火も提灯もない。
でも、だからこそ今日の時間は大事だった。
特別じゃない日の中で、自分の場所を少しだけ取れた気がするから。
「白鳥」
「はい」
「次からも、こういう感じで来るのか」
影山の問いに、つばさは少しだけ考えた。
「毎回はやりません」
「毎回は困る」
「でも、たまには」
「……たまに、な」
その返しに、つばさは小さく笑った。
「はい。たまにです」
観察者は“次の特別”が来る前に、日常の中で場所を取りにくる。
それは少しだけずるいかもしれない。
でも、今の自分にはそのくらいでちょうどいい。
もう“近くにいたい”の方が、“観察していたい”より勝っているのだから。




