第56話 近寄りがたい女子は、祭りのあとほど“何でもない会話”を欲しがる
黒瀬レナは、自分が何をしたいのかを、最近たまにうまく説明できなくなる。
前ならもっと簡単だった。
嫌なものは嫌。
面倒なものは面倒。
近づきたくないものには近づかない。
それだけで済んでいたし、それで困ることもあまりなかった。
なのに今は違う。
祭りの夜のあとから、とくにそうだ。
影山涼太と会って、少し話して、それで終わったはずなのに、その“少し”の続きみたいなものが頭のどこかにずっと残っている。
何か大きな話をしたいわけじゃない。
改めて祭りの感想を言いたいわけでもない。
気持ちを整理したいわけでもない。
ただ、何でもない会話がしたい。
それがいちばん説明しにくくて、いちばん面倒だった。
「……最悪」
昼休み前、窓際の席で頬杖をつきながら小さく呟く。
何が最悪かと言えば、そんな“何でもない会話”をしたい相手がはっきりしていることだ。
影山涼太。
あの、妙に普通に人の気持ちを受け取る男。
祭りの夜、会えないなら来なくてよかった、みたいなことまで言ってしまった。
あれは今思い出してもだいぶ重い。
でも、重かったからこそ、そのあとが妙に途切れた感じもしていた。
あの夜の続きを、ほんの少しだけ日常の中でやり直したい。
そんな感じが、近い。
「黒瀬」
横から声がして、レナは顔を上げた。
「何」
「次、移動」
隣の席の女子が教科書を持っている。
「ああ」
立ち上がりながら、レナはまた思う。
こういう時に限って、影山のことばかり考えている自分がほんとうに面倒だ。
でも、もう“考えてないふり”だけでは済まなくなってきているのも事実だった。
◆
放課後、自販機前へ行くかどうかを、レナは教室を出る直前まで迷っていた。
喉は、別にそんなに渇いていない。
家に帰れば普通に飲み物はある。
わざわざ校舎脇の自販機へ寄る理由は、本来ならそこまでない。
それでも足がそっちへ向くのは、もうだいぶ分かりやすいのではないかと自分でも思う。
「……行くだけ」
小さく言い訳して、レナは校舎脇へ向かった。
自販機前は、夕方になると少しだけ空気が軽くなる。
部活へ向かう連中は足早で、帰るやつはそのまま校門を出る。
ここはちょうど、そのどちらにも完全に属さない場所だ。
だから落ち着くのかもしれない。
小銭を入れて、スポーツドリンクのボタンを押す。
缶が落ちる音がして、それを取り出した瞬間だった。
「黒瀬」
やっぱり来た。
レナは一瞬だけ目を閉じてから振り向く。
影山涼太が立っていた。
鞄を肩にかけたまま、いつもの少しだけ地味で整った顔。
「……何」
「いや」
影山は少しだけ肩をすくめる。
「またここかって」
「別に、来ちゃだめって場所じゃないでしょ」
「そうだけど」
「じゃあいいじゃん」
レナは缶を開ける。
炭酸ではない、冷たいだけの音がした。
影山はその隣の自販機に軽く寄りかかる。
前にも似たようなことがあったな、とレナは思った。
祭りの前。
あの時もここで、少し拗ねたみたいな本音をこぼした。
今の自分は、あの時よりもっと厄介かもしれない。
拗ねているわけではなく、ただ少しだけ会話が欲しいのだから。
「……最近、ここ来るとあんたいる率高くない?」
レナが言う。
「黒瀬も同じこと思ってるだろ」
「思ってない」
「嘘だな」
「うるさい」
その返しのテンポが、少しだけ楽だった。
何でもない会話。
たぶん今したいのは、こういうのだ。
「コンビニ行ってたのか」
レナが聞く。
「藤宮と少し」
「へえ」
思ったより平静な声が出た。
でも、その“へえ”の中に少しだけ引っかかりが混ざったのを、自分で感じる。
影山はそれに気づいたのか、気づかなかったのか、はっきりしない顔をした。
「何だよ」
「別に」
「その“別に”最近かなり弱いぞ」
「……それ、よく言うよね」
「事実だろ」
レナは缶を持ったまま少しだけ空を見た。
夕方の色。
校舎の影。
部活の声。
こういう普通の放課後に、祭りの夜の余韻みたいなものを持ち込んでいるのは、たぶん自分の方だ。
◆
「祭りのあと」
レナがぽつりと言う。
「うん」
「ちょっと、変」
影山が首をかしげる。
「何が」
「……全部」
レナは自分でも雑な言い方だと思った。
でも細かく言うのはもっと嫌だった。
「教室の空気とか」
「うん」
「みずきとか朝比奈とか白鳥とか」
「うん」
「あと、あんたも」
そこまで言うと、影山は少し黙った。
レナは続ける。
「前より、何か、近い感じする」
「……それは、まあ」
「否定しないんだ」
「できないだろ」
その答えに、レナは少しだけ視線を落とした。
やっぱりこの人は、変にごまかさない時がある。
そういうところが、余計に会話を続けたくなる理由なのかもしれない。
「で、黒瀬は何が変なんだよ」
影山が聞く。
そこを聞くな、と思う。
でも、聞かれたからには少しだけ答えたくもなる。
「……祭りの日のあと」
「うん」
「なんか、会話が途切れた感じする」
やっと、それに近い言葉が出た。
影山は一瞬だけ目を瞬かせる。
「途切れた?」
「だって、あの日あそこで終わったでしょ」
レナは公園脇のベンチのことを思い出していた。
人混みから外れた、少し静かな場所。
会えたからよかった、と言って。
会えない祭りなら来なくてよかった、とまで言って。
そのあと、またみんなの方へ戻って、それで終わった。
終わったのに、自分の中だけは終わっていない感じがする。
「だから、別に話すことないのに」
レナは言う。
「こういう何でもない時間が、ちょっと欲しかっただけ」
それを言い切ったあと、レナは少しだけ息を吐いた。
やっぱりかなり本音だ。
でも、今は前みたいにそれを全部飲み込むのもしんどかった。
影山は自販機にもたれたまま、少し考えるように黙った。
そして、低い声で言う。
「……祭りの日の続き、みたいなのか」
レナは一瞬だけ顔を上げた。
「何それ」
「違うのか」
「……違わないけど」
その言い方はずるいと思う。
自分で必死に曖昧にしていたものへ、ちょうどいい名前をつけてくる。
「そっか」
影山が小さく言う。
「何、その返し」
「いや」
「また“いや”」
「じゃあ何て返せばいいんだよ」
レナはそこで少しだけ笑った。
ほんの少しだけ。
「分かんない」
「だろうな」
「でも」
「うん」
「今みたいに、普通に話してるだけでちょっと楽」
それはかなりそのままだった。
買い物の約束じゃなくていい。
祭りみたいな特別な夜じゃなくていい。
ただ、自販機の前で何でもないことを話しているだけで、祭りの日に残った妙な引っかかりが少しやわらぐ。
そういう意味で、自分はたしかに“続き”を欲しがっていたのだろう。
◆
影山は少しだけ正面を見たまま言った。
「黒瀬」
「何」
「それなら、たまにこういうのあってもいいんじゃないか」
レナは一瞬、言葉を失った。
「……こういうの?」
「自販機前とか、帰り際とか」
「……」
「別に、何か用がなくても」
そこまで言ってから、影山自身も少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
レナは缶を握ったまま、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。
そうだ。
たぶん欲しかったのは、その一言だ。
会話してもいい。
用がなくてもいい。
祭りの夜だけじゃなく、そのあとにも続けていい。
それを、影山の口から聞きたかった。
「……あんた」
「何」
「そういうの、普通の顔で言うのほんと反則」
「またそれか」
「またそれ」
レナは視線を逸らしながら、小さく息を吐いた。
でも、さっきまでのざらつきはもうほとんどなかった。
「じゃあ」
影山が言う。
「今日は、その続きってことでいいか」
レナは少しだけ目を細める。
「何そのまとめ方」
「だめか?」
「……だめじゃない」
小さく、それだけ答える。
それで十分だった。
自販機の前の何でもない会話が、祭りの夜の続きを少しだけ日常へ引き戻してくれる。
そんなことを思う自分は、やっぱり前より少しだけ変わってしまったのだろう。
◆
帰り道の分かれ道まで、一緒に歩いた。
会話は多くない。
でも、沈黙は重くない。
レナはそのこと自体が少し意外だった。
祭りの夜のあと、自分はもっとぎこちなくなると思っていた。
でも実際には逆だ。
少しだけ“続き”ができたことで、祭りの夜の言葉も過剰に重くならずに済んだ気がする。
「じゃあ」
分かれ道で立ち止まる。
「ああ」
「……今日は、ありがと」
「それはどっちにだ」
「知らない」
「雑だな」
「別にいいでしょ」
レナは少しだけ笑った。
影山も、ほんの少しだけ口元をやわらげる。
「じゃあまた」
影山が言う。
その“また”が、思っていたより自然に聞こえた。
「……うん。また」
レナはそう返して歩き出す。
近寄りがたい女子は、祭りのあとほど“何でもない会話”を欲しがる。
そして、その“何でもない”がちゃんと成立した時、自分でも少し驚くくらい楽になる。
祭りの夜の続き、みたいなのが少し欲しかっただけ。
そう言ったのは本当だ。
でも今は、それが少しだけ手に入った気がしていた。




