第53話 祭りの翌週、教室の空気だけがまだ少し夜の続きを引きずっている
夏祭りが終わって数日も経てば、さすがに全部元に戻るだろうと影山涼太は思っていた。
祭りは祭りだ。
特別な夜で、少し浮ついて、少しだけいつもと違う空気になる。
でも学校へ戻れば、また制服を着て、授業を受けて、昼休みに弁当を食べて、放課後になればそれぞれの予定へ散っていく。
そういう“普通”の強さを、影山はわりと信じていた。
――甘かった。
「……全然戻ってないな」
月曜の朝、教室へ入って三分でそう思った。
何か大きな事件が起きているわけではない。
クラスメイトたちの会話も、夏休みが近いとか、課題が多いとか、部活がだるいとか、だいたいいつも通りだ。
なのに、自分の周りだけが微妙に違う。
まず、朝比奈ことりの「おはようございます」が前より少しやわらかい。
声のトーンが劇的に変わったわけではない。
でも、祭りの夜を挟む前より、目が合った一瞬にきちんと笑うようになった。
藤宮みずきは、相変わらずうるさい。
ただそのうるささの中に、前より少しだけ“遠慮しない本音”が混ざるようになった。
黒瀬レナは、ぶっきらぼうなままだ。
でも、そのぶっきらぼうが完全な壁ではなくなっている。
少なくとも影山には、前より“会話の続き”が見える。
白鳥つばさは、図書室の使いで来る頻度そのものはそこまで変わらない。
なのに、教室へ入ってきた時の立ち位置が少し違う。
もう“観察だけして帰る後輩”の顔をしていない。
「……なんでこうなるかな」
自分の席へ座りながら、小さく呟く。
原因は分かっている。
夏祭りだ。
あの夜に、それぞれと別々の時間を持ってしまった。
みずきとも。
ことりとも。
レナとも。
つばさとも。
しかも、どれも中途半端に流せるような時間ではなかった。
ちゃんと近くて、ちゃんと残る会話ばかりだった。
だからたぶん、戻れないのだ。
何もなかったみたいな顔へは。
◆
「影山」
朝のホームルーム前、予想通り最初に来たのはみずきだった。
「何だよ」
「今日のお弁当なに」
「その入り方もう固定なんだな」
「大事だから」
「今日はしょうが焼き」
「うわ、強い」
みずきはそう言って机の横へ寄りかかる。
この距離感も前から近かった。
でも、今は少し意味が違う。
祭りの夜、焼きそばの列で“最初からそう言えよ”と返してしまったあとだからだろうか。
みずきの“近さ”が、前よりはっきり自覚的に感じられる。
「ねえ」
「何」
「今日、放課後ちょっと話せる?」
さらっと言う。
影山は一瞬だけ止まった。
「……急だな」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど」
「じゃあ決まりね」
「おい」
勝手に決めるな、と言いかけてやめた。
たぶん今の自分は、以前ほどはっきり突っぱねられない。
みずきはその反応を見て、少しだけ満足そうに笑う。
「ほんとに最近の藤宮さん、前より一歩早いですね」
静かな声が後ろからした。
ことりだった。
みずきは振り向いて「朝比奈、おはよー」と手を振る。
ことりはそれに小さく会釈してから、影山の方へも目を向けた。
「おはようございます」
「……おはよう」
ことりの今日の笑顔は、やっぱり少しやわらかい。
祭りの翌朝にも思った。
その次の日にも思った。
そして今も、同じように思う。
浴衣を褒めたことや、“来てくれてよかった”と返したことが、ちゃんと二人のあいだに残っている。
「藤宮さん、放課後に話す約束ですか」
ことりが聞く。
「うん、ちょっとだけ」
「……そうですか」
声は静かだ。
でも、“そうですか”のあとに少しだけ続きたそうな空気がある。
影山はそれに気づいてしまって、ますますやりにくい気分になった。
「朝比奈も何かあるのか」
自分から聞くと、ことりは少しだけ目を見開いた。
「え」
「いや、その顔」
「そんなに分かりやすかったですか」
「少し」
ことりは一瞬だけ視線を落として、それから小さく言う。
「明日の委員会の連絡があるので、朝少しだけ話したいと思っていました」
それもまた、“連絡”の形をした個人的な時間の取り方だ。
でも今はもう、それをただの事務連絡として受け取るほど鈍くもいられない。
「ああ、分かった」
「ありがとうございます」
ことりが言う。
そのやり取りを、みずきが横でにやっとしながら見ている。
「何だよ」
影山が言うと、みずきは肩をすくめた。
「いやー、今の空気、すごいなって」
「何が」
「ちゃんとみんな取りに来てる感じ」
「言い方」
「でもそうじゃん」
否定しづらいのが最悪だった。
◆
昼休みになると、その“取りに来てる感じ”はさらに分かりやすくなった。
みずきはいつも通り影山の席へ来る。
ことりは前ほど遠慮せず、会話に少し自然に混ざる。
レナは自分から近寄ってくるわけではないが、前みたいに完全な無関心のふりはしない。
そして、つばさが絶妙なタイミングで現れた。
「失礼します」
「また来た」
影山が言うと、つばさは本を抱えたまま首をかしげた。
「来てはいけませんか」
「そうは言ってないけど」
「なら問題ありません」
ほんとうに前より遠慮がない。
みずきが笑う。
「白鳥ちゃん、最近かなり教室に来るよね」
「必要な本があるので」
「その言い方、もう半分くらい信用できない」
「半分は信用してください」
つばさは淡々と言う。
でも、その目はほんの少しだけやわらかい。
祭りの夜、花火の下で“観察じゃなくてよかった”と言ったあとから、つばさの中の何かも少し変わったのだろう。
レナが窓際からぼそっと言った。
「みんな、祭りのあとでだいぶ分かりやすくなったよね」
「黒瀬がそれ言う?」
みずきがすぐに返す。
「言う」
「自分含めて?」
「……まあ」
その“まあ”はかなり珍しかった。
ことりが少しだけ笑う。
「否定しないんですね」
「しにくいだけ」
レナはそう言って目を逸らす。
影山はそこで、本気で思った。
教室の空気が、まだ少しだけ祭りの夜の続きを引きずっている。
たぶん全員そうだ。
そしてその“引きずり方”がそれぞれ違う。
「影山」
つばさが静かに呼ぶ。
「何」
「今、かなり疲れた顔してます」
「してるだろうな」
「でも、前みたいに本気で逃げたそうな感じではないです」
その一言に、影山は少しだけ黙った。
鋭い。
やっぱりこの後輩は嫌なところをきちんと拾う。
「……逃げたい気持ちはあるよ」
「でも?」
みずきが面白そうに聞く。
「でも、そこまでじゃない」
気づけば、そんな答えが出ていた。
ことりが静かに目を細める。
レナはほんの少しだけ表情をやわらげる。
つばさは小さく頷いた。
「だろうと思いました」
「何で分かるんだよ」
「みなさんの話を、ちゃんと最後まで聞いてるので」
それはたしかにそうだった。
祭りのあとで変わったのは、周りだけではない。
自分もまた、前より“聞いたあと”を長く引きずるようになっている。
みずきの言葉。
ことりの言葉。
レナの短い本音。
つばさの静かな決意。
どれも、以前みたいに“はいはい”では流せない。
◆
放課後、教室の人が少しずつ減っていく。
みずきは部活の前に話すと言っていたが、準備をしながらもちらちらこちらを見ている。
ことりは委員のプリントをまとめている。
レナはまだ帰らない。
つばさも今日はすぐ図書室へ戻らず、入口のところに残っていた。
おかしい。
全員少しずつ残り方が変だ。
「……おまえら」
影山が思わず言う。
「何」
みずきが聞く。
「最近、ちょっとずつ残る理由が薄くなってきてないか」
教室の空気が一瞬だけ止まる。
ことりが先に視線を上げた。
「それは」
少しだけ言葉を探してから、静かに続ける。
「そうかもしれません」
みずきが笑った。
「うわ、朝比奈認めるんだ」
「だって本当なので」
レナがため息交じりに言う。
「もう“相談”とか“ついで”だけじゃ足りなくなってるんでしょ」
つばさがその横を引き取るように言う。
「祭りの夜で、一度みなさん自分の気持ちを自覚したからだと思います」
「分析するな」
影山が言うと、つばさは少しだけ微笑んだ。
「でも正確ですよ」
それが腹立たしいくらいその通りだった。
ことりは静かに少しずつ近づいてくる。
みずきはもう冗談だけでは隠しきれない。
レナは何でもない会話を欲しがるようになった。
つばさは観察者の席を離れ始めた。
そして自分もまた、それを全部知っている。
「……前よりちょっとだけ特別になってるよね?」
みずきが、ふいにそう言った。
教室がまた少し静かになる。
前よりちょっとだけ特別。
それは、かなり正確な言い方だった。
付き合っているわけではない。
告白したわけでもない。
でも、前のように“クラスメイトの一人”で済ませられる空気ではない。
影山はすぐには答えなかった。
ことりも、レナも、つばさも、言葉を待っているような空気だった。
「……まあ」
やっと出たのは、それだった。
「前よりは、そうかもな」
みずきが笑う。
ことりは少しだけ安心したように息をつく。
レナは目を逸らしながらも、口元だけは少しやわらいだ。
つばさは小さく頷く。
その反応の全部を見て、影山は心の中でまた小さくため息をついた。
やっぱりもう、戻れない。
祭りの翌週、教室の空気だけがまだ少し夜の続きを引きずっている。
そしてその続きを、たぶん誰も本気では終わらせたくないと思っている。




