第52話 祭りの夜を越えた放課後は、もう少しだけ“恋の話”に近づいていく
夏祭りが終わったあとの教室は、不思議なくらい静かに見える。
もちろん、本当に静かなわけではない。
昼休みになれば誰かの笑い声はするし、放課後になれば部活へ向かう足音も響く。
授業中だって、先生の声とページをめくる音はちゃんとある。
それでも、影山涼太には分かっていた。
祭りの前と後では、何かが少し違う。
「……」
六時間目が終わったあと、影山は席で鞄へノートをしまいながら、教室の空気をなんとなく見渡した。
朝比奈ことりは、委員の書類を机の端へそろえている。
静かな顔はいつも通りだ。
でも、目が合った時に向けてくる笑みが前よりほんの少しだけ自然で、やわらかい。
藤宮みずきは、部活へ行く前の準備をしながら、相変わらずよくしゃべる。
でも、冗談の中に混ざる本音の割合が、祭りの前より増えている気がする。
黒瀬レナは窓際で頬杖をついている。
ぶっきらぼうさは変わらない。
けれど、影山に向ける“別に”の精度が、少しだけ落ちた。
白鳥つばさは今日は図書室へ戻る前に少しだけ顔を出していて、いつも通り静かな観察者みたいな顔をしている。
でもその立ち位置が、もう完全に“外側”ではないことを、影山もつばさ自身も知っている。
誰も告白していない。
誰とも付き合っていない。
でも、もう“ただの相談役と、その相談相手たち”では説明がつかない空気が、この教室にはある。
「……ほんとに変わったな」
小さく呟いた時、近くにいたみずきがすぐに反応した。
「何が?」
「何でもない」
「出た、何でもない」
「便利な言葉ですね」
ことりが静かに言う。
「朝比奈までそれ言うのか」
「最近よく使うので」
その横からレナがぼそっと刺す。
「影山の影響じゃない?」
「なんで俺なんだよ」
「“何でもない”の回数が多いから」
さらに、教室の入口の方からつばさの声が届く。
「先輩は最近、自分の感情を曖昧にする頻度が増えてます」
「おまえ、いつの間にいた」
「今来ました」
全然助からない。
でも、そのやり取りに小さな笑いが起きる。
誰も嫌な顔をしない。
むしろ少しだけ、心地いい。
影山はその空気を感じながら、ようやく少しずつ整理がついてきた自分の気持ちを確かめていた。
◆
ことりとの距離は、祭りのあとで静かに変わった。
朝の挨拶の時、前よりもほんの少しだけ表情がやわらかい。
目が合った瞬間に、どちらかが慌ててそらすのではなく、その一拍をちゃんと受け止めるようになった。
委員の確認で話す時もそうだ。
必要な連絡の合間に、祭りの夜の余韻みたいなものがまだ少しだけ残っている。
言葉にしなくても分かる。
“来てよかった”と言ったこと。
“来てくれてよかった”と返したこと。
浴衣を褒めたこと。
その全部が、ちゃんと消えずに残っている。
みずきとの距離は、逆方向で変わった。
前からよくしゃべるし、前から距離は近い。
でも今は、冗談の向こう側へある本音を、お互い少しずつ隠しきれなくなっている。
焼きそばの列で言ったこと。
“最初からそう言えよ”と返してしまったこと。
そのあと、みずきが“じゃあ次は、ちゃんと最初から言うかも”と笑ったこと。
あれは、たぶんもう半分以上予告だ。
レナは相変わらず分かりにくい。
でも、分かりにくいなりにかなり近いことを言う。
会えない祭りなら来なくてよかった。
あの一言は、今もたまに思い出す。
短くて、ぶっきらぼうで、でも妙に重い。
つばさは、もう“観察者”という言葉だけではごまかせない。
花火の下で、“今は観察じゃなくてよかった”と言った時の顔は、少なくとも影山にはただの後輩には見えなかった。
そして何より、自分の側も変わった。
以前なら、誰かから何かを言われても、“そういうこともある”で流せたはずだ。
でも今は違う。
誰の言葉がどう残るのか、少しずつ違いが出てきている。
それを自覚してしまった以上、もう完全な平等ではいられない。
◆
放課後、みずきが部活へ向かう前に、いつものように席の近くへ来た。
「影山」
「何」
「今日さ、帰り暇?」
「いや、普通に帰るけど」
「じゃあ暇じゃん」
「その理屈はおかしい」
「ちょっとコンビニ寄ろうよ」
「なんで」
「飲み物買いたいから」
「一人で行けるだろ」
「行けるけど、ついでに話したい」
さらっと言う。
最近のみずきは、こういう“ついでに話したい”を前より普通に混ぜてくる。
影山が返事に困っていると、ことりが静かにこちらを見た。
レナは窓際から「また始まった」みたいな顔をする。
つばさは入口のところで黙って観察している。
ほんとうに、もう隠しようがない。
「……少しだけなら」
影山が答えると、みずきがすぐに笑った。
「よし」
「その“よし”が早いんだよ」
「だって取れたし」
「取れたって何だ」
「時間」
みずきはそう言って、部活バッグを肩にかけ直す。
ことりはそのやり取りを見て、少しだけ視線を落としたあと、小さく口を開いた。
「影山くん」
「ん?」
「明日、委員会の連絡があるので、朝少しだけ話せますか」
「……ああ、いいけど」
「ありがとうございます」
それもまた自然な顔をした“少しだけ時間を取りたい”だと、もう分かる。
レナはそこで、露骨に小さくため息をついた。
「なんかもう、みんな普通に取りに来るね」
みずきが振り向く。
「黒瀬も来れば?」
「行かない」
「はいはい」
「その“はいはい”腹立つ」
でも、レナは本気では怒っていない。
むしろ、“そういうふうに前へ出る空気”が今の教室の中で当たり前になり始めていることに、自分でも少し慣れてきているのかもしれなかった。
つばさが静かに言う。
「祭りのあと、皆さん少しだけ遠慮が減りましたよね」
「やっぱりそう見える?」
みずきが聞く。
「はい。前はもう少し、“理由がある時間”を使っていました」
図書室。
委員。
買い出し。
相談。
偶然の帰り道。
「でも今は、“少し話したい”とか“少し一緒にいたい”が前へ出てきてます」
それはたぶん、かなり正確な分析だった。
みずきは満足そうにうなずく。
ことりは静かに受け止める。
レナは露骨に認めたくない顔をする。
影山だけが、やっぱり少し頭が痛かった。
「……それ、全部俺の周りで起きてるんだよな」
「そうですね」
ことりがやさしく言う。
「中心人物なので」
つばさが追撃する。
「まだ言うのか、それ」
「事実なので」
レナがぼそっと付け足す。
「否定できないのが一番面倒」
みずきが笑う。
「でも、ちょっとだけうれしそうだよね。影山」
「は?」
「今の顔」
「そんなわけあるか」
「完全に嫌ならもっと逃げてる」
その一言に、影山は反論を止めた。
たしかにそうかもしれない。
完全に嫌なら、もう少し露骨に距離を取る。
でも、自分はそうしていない。
面倒だと思いながらも、結局それぞれへ返事をして、時間を作っている。
それはもう、ただ巻き込まれているだけではないのだろう。
◆
みずきとコンビニへ向かう前、影山はふと教室の中を見回した。
ことりはノートを閉じている。
レナは窓の外を見ているふりをして、たぶん半分くらいはこちらの空気を聞いている。
つばさは入口のところで本を抱えたまま、静かに立っている。
少し前までなら、それぞれはもっとバラバラだった。
相談は相談。
秘密は秘密。
一対一で閉じる時間が多かった。
でも今は違う。
全員が同じ教室にいて、同じ放課後を共有しながら、その中で少しずつ“個人的な近さ”を持ち始めている。
それはかなり危うくて、でも同時に、少しだけ温かい感じもした。
「影山?」
みずきが呼ぶ。
「何」
「置いてくよ」
「おまえが誘ったんだろ」
「じゃあ早く」
そう言われて、影山は鞄を持ち上げた。
その時、ことりが静かに言った。
「また明日」
「……ああ、また明日」
レナも少し遅れて、窓際から声を投げる。
「コンビニ、寄りすぎないで帰りなよ」
「母親かよ」
「そう聞こえるならそうなんじゃない」
つばさは最後に、小さく会釈して言った。
「先輩」
「ん?」
「放課後は、もう前みたいに静かじゃないですね」
影山は一瞬だけ言葉に詰まった。
それは、今の状況をいちばん簡単に表していた。
秘密を拾う前の放課後。
誰とも特別な話をしなかった時間。
静かに帰るだけの時間。
あれにはもう戻れない。
「……そうだな」
結局、それだけ答える。
つばさは少しだけやわらかく笑った。
「でも、その方が今の先輩には似合ってる気がします」
「そんなことない」
「あります」
即答だった。
みずきが「白鳥ちゃん、それ分かる」と笑う。
ことりも小さくうなずく。
レナは「否定できないのが腹立つ」とぼそっと言った。
影山は小さく息を吐いた。
放課後は、もう秘密を拾うだけの時間じゃない。
相談を受けて終わるだけの時間でもない。
少しずつ、でも確実に、恋の話へ近づいている。
その中心に自分がいることを、ようやく影山は認め始めていた。
それは面倒だ。
かなり面倒だ。
でも、もうそれだけでは言い切れない。
「……行くか」
影山が言うと、みずきが「うん」と笑って先に教室を出る。
後ろには、ことりとレナとつばさがいる。
それぞれの距離で、でも確実に近づいてきている。
祭りの夜を越えた放課後は、もう少しだけ“恋の話”に近づいていく。
そのことを、影山はこの日の夕方、ようやくはっきりと受け止めていた。




