第49話 花火が終わったあと、誰と帰るかで空気が最後にもう一度揺れる
花火が終わると、祭りの夜は少しだけ現実に戻る。
さっきまで空を見上げていた人たちが、一斉に地上へ意識を戻す。
屋台の明かりはまだ残っているのに、もう“これから始まる夜”ではなく、“そろそろ帰る時間”の空気が混ざり始める。
影山涼太は、その変化を通りの真ん中でぼんやり感じていた。
花火の余韻はまだある。
けれど、今はもう別の意味で落ち着かない。
帰る時間だ。
つまり、誰と最後に話して、誰とどこまで一緒に歩くのか。
その“最後の部分”が、今夜の空気をもう一度だけ揺らすことを、影山はなんとなく分かっていた。
「……やっぱり最後まで面倒だな」
小さく呟く。
すると、すぐ近くで声がした。
「何がですか」
ことりだった。
影山は少しだけ肩をすくめる。
「なんでもない」
「それ、今日何回目ですか」
「数えてたのか」
「なんとなくです」
ことりはそう言って、小さく笑った。
花火のあとのことりは、来た時より少しだけやわらかい。
委員の仕事も終わった。
浴衣姿のまま、でも肩の力が少し抜けている。
そのことりの少し後ろでは、みずきがスマホを見ながら「うわ、もうこんな時間」と騒いでいる。
レナは人の流れを見て、帰る方向を考えているようだった。
つばさは少し離れた場所で、でも完全には輪から外れない位置を取っている。
全員いる。
そして全員が、そろそろ帰ることを意識している。
◆
「どうする?」
みずきが最初に言った。
「何が」
影山が聞き返すと、みずきはあきれたように笑う。
「帰りだよ帰り。ここで“じゃあね”するのか、駅まで一緒か、途中までなのか」
そこをはっきり言葉にするな、と影山は思った。
でも、みずきのこういうところは今さら止まらない。
ことりは少しだけ視線を落としてから言う。
「私は駅までです」
「私も」
つばさが静かに続ける。
レナは少し間を置いた。
「私は逆方向」
「そうだったな」
影山が言うと、レナは小さくうなずく。
そこで一瞬だけ、空気が止まる。
つまり、駅方向組と、逆方向組で分かれる可能性が高い。
でも、それを誰がどう言い出すのかで意味が変わる。
みずきはそれを分かっている顔で、でもあえて軽く言った。
「じゃあ、ここで一回解散でもいいんじゃない?」
言い方は軽い。
でも、その軽さが少しだけ無理しているのも影山には分かる。
ことりも分かっているのか、すぐには同意しなかった。
つばさは黙っている。
レナは露骨に面倒そうな顔をした。
「何、その空気」
みずきが笑う。
「別に深い意味ないって」
「深い意味なく聞こえないのが問題なんだろ」
レナがぼそっと言う。
「黒瀬、それ今日ずっと言ってる」
「事実だし」
みずきが肩をすくめる。
「じゃあ影山が決めてよ」
来た。
影山は本気で嫌そうな顔をした。
「なんでだよ」
「だって中心人物じゃん」
「それまだ言うのか」
「言うよ。今日の流れ全部見たでしょ?」
見た。
むしろ見すぎた。
そしてその結果、今ここで何かを選ぶような顔はしたくなかった。
「……全員、ちゃんと帰るならそれでいいだろ」
結局そんな答えになる。
みずきが「うわ、逃げた」と笑う。
ことりは少しだけ困ったように微笑む。
レナは「まあそうなるよね」という顔をしている。
つばさだけが、静かにこちらを見ていた。
「先輩」
「何」
「今の、すごく先輩らしいです」
「褒めてないだろ」
「半分くらいは」
そう言ってつばさが少しだけ笑う。
こういう時、自分の不器用さまで観察されている気がして、影山は心底やりにくかった。
◆
結局、会場の外れの交差点までは全員で歩くことになった。
人の流れは帰る方向へ集まっていて、来た時より少しだけ静かだ。
提灯の明かりも、屋台の呼び込みも、もう“終わり際”の色をしている。
五人で並んで歩く。
最初の頃の“みんなで”よりは、少しだけ自然だった。
たぶん、それぞれが今夜少しずつ自分の時間を持てたからだろう。
誰かだけが足りないわけではない。
でも、満足しているとも言い切れない。
その微妙な感じが、今の五人の距離そのものみたいだった。
「今日は、楽しかったです」
ことりがぽつりと言う。
みずきがすぐに反応した。
「朝比奈、素直」
「今日はそういう日みたいなので」
「うわ、強い」
ことりは少しだけ照れたように笑った。
その笑顔を見て、影山はふと思う。
ことりはほんとうに少しずつ変わった。
静かなまま、でも確実に自分の言葉で近づいてくるようになった。
その変化を、今夜は何度も見た。
「藤宮さんは?」
つばさが聞く。
「何が?」
「楽しかったですか」
みずきは一瞬だけきょとんとして、それから大きく笑った。
「そりゃ楽しかったよ」
「即答ですね」
「だって祭りだし、屋台いっぱい回れたし、途中いろいろあったし」
その“いろいろ”に、本音がかなり混ざっているのはみんな分かっている。
でも誰もそこを突っ込まない。
「黒瀬先輩は?」
今度はつばさがレナへ向ける。
レナは少しだけ眉をひそめた。
「なんで私に振るの」
「なんとなく聞きたかったので」
「……まあ、来なきゃよかったとは思ってない」
かなりレナらしい答えだった。
でも、それはつまり“来てよかった”に近い。
みずきがにやっとする。
「素直じゃん」
「うるさい」
それでも、レナの声は来た時より少しだけやわらかかった。
そして、つばさは最後に自分のことを聞かれる前に先に言った。
「私は、かなり来てよかったです」
静かな声。
でも、花火の下での時間を知っている影山には、その重さが分かる。
「白鳥ちゃん、今日はもう隠す気ないね」
みずきが言う。
「前よりは」
つばさは淡々と答える。
「祭りの日くらいは、と思ったので」
その一言に、ことりが小さくうなずく。
レナも特に否定しない。
そして全員の視線が、最後に自然と影山へ向いた。
「……なんで最後こっち来るんだよ」
影山が言うと、みずきが笑った。
「だって中心人物だし」
「またそれか」
「で、影山は?」
ことりが静かに聞く。
今夜、楽しかったか。
誰との時間がどうだったか。
そこまで細かく問われてはいない。
でも、“影山はどうだったのか”を、みんなが知りたがっているのは分かる。
影山は少しだけ歩幅を緩めてから答えた。
「……楽しかったよ」
それだけ言う。
みずきが「おー」と笑う。
ことりは少しだけ安心したように息をつく。
レナは視線を逸らし、つばさは静かに頷いた。
たったそれだけの返事なのに、空気が少しだけやわらいだ。
◆
交差点に着くと、方向が分かれ始める。
駅へ向かう組。
反対方向へ帰るレナ。
途中で一本違う道へ入るつばさ。
いよいよ本当に、ここで解散だ。
「じゃあ、私はこっち」
レナが先に言った。
「ああ」
「……今日はありがと」
誰に向けた言葉なのかは、少しだけ曖昧だった。
全員に対してでもあり、たぶん影山に対してがいちばん近い。
「うん」
みずきが言う。
ことりも小さく「お疲れさま」と返す。
影山は、レナの方を見て言った。
「気をつけて帰れよ」
「……子どもじゃないし」
「分かってる」
「でも、それは言うんだ」
レナは少しだけ困ったように笑って、それから背を向けた。
その後ろ姿が人の流れに混ざっていく。
つばさは少しだけ遅れて立ち止まった。
「私は次の角で」
「うん」
「先輩」
影山が見ると、つばさはほんの少しだけやわらかい顔をしていた。
「今日は、ちゃんと来てよかったです」
「……ああ」
「それと」
つばさは少しだけ言葉を選んでから続ける。
「もう観察だけじゃないので、次からも覚悟してください」
「やめてくれ」
影山が本気で言うと、つばさは小さく笑った。
「冗談半分です」
「半分かよ」
「半分は本当です」
それだけ言って、つばさも角を曲がっていった。
残るのは、影山とことりとみずき。
駅までは同じ方向だ。
空気が、また少しだけ揺れる。
「……ここから駅まで、短いよね」
みずきが言う。
「そうですね」
ことりが返す。
二人とも、言い方は軽い。
でも、どちらも“最後の少し”を意識しているのが分かる。
影山はその真ん中で、また少しだけ頭を抱えたくなる。
◆
駅までの道は、祭り会場から少し離れるだけで急に静かになる。
人はいる。
でも、祭りのざわつきに比べれば、会話がちゃんと聞こえる距離だ。
「朝比奈」
みずきが言う。
「はい」
「今日の浴衣、ほんと強かった」
ことりが少しだけ目を丸くして、それから笑う。
「ありがとうございます」
「いやほんとに。私服で来たのちょっと後悔したもん」
「そんなことないですよ」
「あるって」
二人の会話は明るい。
でも、その明るさの奥で互いにちゃんと相手を認めている感じがあった。
影山はそのやり取りを聞きながら、少しだけ救われる。
誰か一人だけが強くて、誰か一人だけが負ける、みたいな単純な空気ではない。
それぞれがそれぞれに前へ出て、でも完全に壊れないままここにいる。
それはたぶん、すごく不安定で、でもかなり大事なことなのだろう。
駅前が見えてきた。
ここで、本当に終わる。
「じゃあ」
ことりが小さく言った。
「私は、ここで」
「え、同じ駅じゃないの?」
みずきが聞く。
「少しだけ回り道して帰ります」
ことりはそう言って、ほんの一瞬だけ影山を見る。
その視線の意味は、今夜の時間を少しだけ一人で抱えて帰りたい、ということかもしれなかった。
「今日は、ありがとうございました」
ことりが静かに言う。
「こちらこそ」
影山が答えると、ことりはやわらかく笑った。
「……本当に、来てよかったです」
その言葉は、さっき神社脇でも聞いた。
でも今は、また少し違う重さがある。
「じゃあね、朝比奈」
みずきが言う。
「はい。また月曜日に」
ことりは小さく会釈して、駅とは逆の細い道へ入っていった。
残るのは、影山とみずきの二人だけ。
一瞬だけ、風が通るみたいに空気が軽くなる。
「……最後、またこうなるんだ」
みずきが小さく笑う。
「何が」
「二人」
その言い方に、影山は少しだけ言葉を失う。
「まあ、たまたまだけどな」
「そういうことにしとく?」
「しとくって何だよ」
みずきは肩をすくめる。
「別にー。でも、今日の最後がこれなら悪くないかなって」
その言葉に、影山はうまく返せなかった。
祭りの夜は、最後までほんとうに面倒だ。
でも、その面倒さの中に、誰かとの時間がちゃんと残る。
みずきと駅へ向かう短い道を歩きながら、影山は自分の胸の中がまだ静かではないことをもう隠しきれなかった。
◆
改札前でみずきと別れたあと、ようやく一人になる。
スマホの通知も、屋台の音も、友達同士の笑い声も、少しずつ遠くなる。
それなのに、胸の中だけはまだ祭りの夜のままだ。
ことりの浴衣姿。
みずきの笑顔の裏の本音。
レナの遠回しな強さ。
つばさの静かな決意。
誰と最後に長く話したか。
誰とどこまで一緒に歩いたか。
そんなことで空気が揺れること自体、少し前の自分なら信じなかっただろう。
「……ほんとに、静かじゃないな」
ひとりで小さく呟く。
でも、その静かでなさが嫌なだけではない。
たぶんそこが、もういちばん大きい。
花火が終わったあと、誰と帰るかで空気が最後にもう一度揺れる。
そしてその揺れの全部を、自分はちゃんと覚えてしまっている。
今夜のことは、たぶんしばらく消えない。
そう分かるくらいには、もう十分すぎるほど特別な夜になっていた。




