第39話 優等生の浴衣は反則だと、見た瞬間に理解してしまった
朝比奈ことりは、祭り会場の端で一度だけ立ち止まって深呼吸をした。
浴衣の袖口を軽く整える。
帯は崩れていない。
髪も、家を出る前に母に直してもらったままで大丈夫そうだ。
足元の下駄はまだ少し慣れないけれど、歩けないほどではない。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように小さく呟く。
委員の手伝いは終わった。
最初の案内と、備品の確認と、先生への報告。
ここまではきちんとやれた。
いつも通り、落ち着いて、間違えずに。
問題は、このあとだった。
影山くんは、もう会場に来ている。
たぶんみずきと先に合流している。
それも分かっている。
分かっているのに、こうして自分も急いで来てしまったのは、やっぱり会いたかったからだ。
言葉にすると、少し照れる。
でも、それ以外に理由はない。
ことりは人の流れの向こうへ視線を向けた。
提灯の灯り。
屋台の煙。
色のついた浴衣と私服が混ざる賑やかな通り。
その中で、少し離れた場所に、見慣れた二人を見つけた。
影山涼太。
そして藤宮みずき。
二人は焼きとうもろこしを持って、通りの端の石段の下あたりに立っていた。
みずきは楽しそうに笑っていて、影山くんは少し困ったような顔をしながら、それでもちゃんとその隣にいる。
その光景を見た瞬間、ことりの胸の奥で小さく何かが揺れた。
落ち着かない。
でも、嫌ではない。
むしろ、そこへ自分もちゃんと入っていきたいと思ってしまう。
「……行こう」
ことりは小さく息を整えて、二人の方へ歩き出した。
◆
「影山くん」
声をかけると、最初に反応したのはみずきだった。
「あ!」
ぱっとこちらを振り向き、目を大きくする。
「朝比奈!」
その声につられて、影山も振り向いた。
そして、その瞬間だった。
影山の表情が、分かりやすく止まる。
「……」
ことりは一歩だけ足を止めた。
言葉がない。
でも、その沈黙の意味は十分すぎるほど伝わってきた。
影山くんは、見ている。
ちゃんと見て、そして少しだけ言葉を失っている。
その反応だけで、浴衣を着てきてよかったと思ってしまう自分がいた。
「こんばんは」
できるだけいつも通りの声で言う。
「委員の手伝い、終わったので」
「あ、ああ」
影山が、少し遅れて返事をした。
その遅れが妙にうれしい。
みずきはすぐに笑った。
「うわ、朝比奈すご」
「え?」
「いやだって」
みずきはことりを上から下まで見て、素直に言った。
「めっちゃ似合ってる」
「ありがとう」
「いやほんとに。強いって」
その“強い”が、何に対してなのかは聞かない方がよさそうだった。
影山はまだほんの少しだけ黙っている。
ことりはその様子を見て、静かに首をかしげた。
「……変ですか?」
わざとではない。
本当に、少しだけ不安だった。
浴衣なんて、毎年着るわけではない。
色も柄も、自分に似合うものを選んだつもりではいるけれど、影山くんがどう見るかまでは分からない。
だから、その一言が自然に出た。
すると影山は、はっとしたように言った。
「違う」
「え」
「変じゃない」
前より少しだけ強い声だった。
ことりは目を瞬く。
影山は少し視線を逸らしながら、それでも言葉を続ける。
「その……すごく、似合ってる」
その瞬間、祭りの音が少し遠くなった気がした。
焼きとうもろこしの匂いも、人のざわめきも、提灯の光も、全部ちゃんとそこにあるのに、自分の耳にはその一言だけがはっきり残る。
ことりは、ほんの少しだけ息を止めた。
「……そうですか」
やっとそれだけ言う。
本当はもっと何か言いたかった。
うれしいとか、ありがとうございますとか、そういう当たり前の返し。
でも、今は声にすると、全部そのまま出てしまいそうだった。
みずきが横で「うわ」と小さく言った。
「影山、それ今かなりちゃんと褒めたね」
「聞かれたからな」
「いや、聞かれてもあそこまで素直に出るの珍しいって」
影山が少しだけ顔をしかめる。
「藤宮、おまえ黙ってろ」
「やだよー、面白いし」
ことりは少しだけ視線を落とし、それから静かに笑った。
「……ありがとうございます」
今度はちゃんと言えた。
影山はその笑顔を見た瞬間、また少しだけ目をそらした。
ほんとうに分かりやすい。
◆
三人で通りの方へ戻る。
最初は少しだけ気まずいかと思ったが、実際にはそんなことはなかった。
みずきが最初から飛ばしていたおかげか、空気はもうある程度“祭りのテンション”に染まっている。
「朝比奈、何か食べた?」
みずきが聞く。
「まだ何も」
「じゃあ何か食べようよ。影山、たこ焼き食べたし、とうもろこしも食べたよね?」
「勝手に報告するな」
「いいじゃん」
そのやり取りを聞きながら、ことりは少しだけ胸の奥がざわつくのを感じた。
ああ、この二人は、もうすでに少し時間を過ごしているのだ。
自分の知らない会話があり、自分の見ていないやり取りがあった。
でも、だからといって引きたくはない。
ことりは落ち着いた声で言う。
「かき氷はどうですか」
「え、いきなり冷たいの?」
みずきが笑う。
「でもいいかも」
「委員の手伝いしてたので、ちょっと暑くて」
「たしかに」
影山が頷いた。
「なら先に休める場所探した方がいいかもな」
ことりはその自然な言い方に、少しだけ心がやわらぐ。
自分が来たあとのことも、ちゃんと考えてくれている。
そう思えるだけで、さっきの小さなざわつきが少しだけ薄くなる。
かき氷の屋台に並ぶ。
みずきが「いちご!」と言い、ことりは少し迷って「抹茶にします」と答えた。
影山は「まだ食うのか」と言いながら、結局一番小さいサイズのレモンを選んだ。
「それ、影山っぽい」
みずきが言う。
「何がだよ」
「無難なとこ」
「無難で何が悪い」
その横で、ことりは静かに思う。
こうして三人でいるのは、不思議と悪くない。
もちろん、二人だけの時間ではない。
でも、“最初からいなかった人”として入るのではなく、ちゃんとここへ来られた実感がある。
それが少しだけうれしかった。
◆
かき氷を受け取ったあと、少し人通りの少ない端へ移動した。
ことりは下駄の鼻緒を軽く直しながら、抹茶のかき氷を一口食べる。
ひんやりした甘さが、緊張で少し熱くなっていた身体にちょうどよかった。
「朝比奈、委員って何してたの?」
みずきが聞く。
「最初の案内と、備品の確認です」
「へえ。だから最初いなかったんだ」
「はい」
「でも、ちゃんと来たね」
みずきの言い方は明るい。
でも、その奥に少しだけ“来ると思ってたけど、やっぱり来たか”みたいな感触がある。
ことりはそれを感じ取りながらも、静かに答えた。
「来たかったので」
その一言に、みずきが一瞬だけ黙る。
影山も、かき氷のスプーンを止めた。
言いすぎただろうか、とことりは一瞬だけ思う。
でも、もう今さら引っ込めるのも違う気がした。
「委員の仕事が終わったら、少しだけでも行こうと思ってました」
続けて言う。
すると、影山がほんの少しだけ視線を落とし、それから静かに言った。
「来てくれてよかった」
みずきが小さく「うわー」と声を漏らす。
「何その会話」
「何が」
「いや、なんかもう」
みずきはかき氷を持ったまま、少しだけ空を仰いだ。
「しっとりしすぎじゃない?」
たしかに、今の会話は少しだけ祭りの賑やかさから浮いていたかもしれない。
でも、ことりにはそれが嫌ではなかった。
むしろ、こういうふうに静かに言葉が届く時間が、自分と影山くんらしい気がした。
「藤宮さんは、ずっと元気ですね」
ことりが少しだけ笑いながら言うと、みずきは「まあね」と胸を張る。
「祭りだし!」
「それはそうですけど」
「朝比奈こそ、浴衣でしっとり感増しすぎなの」
「増しすぎ、ですか」
「うん。なんかもう、見た瞬間“あ、これだめだ”って思った」
「何がですか」
「影山が落ちるやつ」
その直球に、ことりは本気で言葉を失った。
「藤宮さん!」
「えー、でもほんとでしょ?」
みずきが影山を見る。
影山は露骨に困った顔をした。
「こっち見るな」
「ほら」
「何がほらだ」
ことりは自分の頬が熱くなるのを感じた。
でも、みずきの言い方がただの意地悪ではないことも分かる。
ちゃんと認めたうえで、茶化しているのだ。
だから怒りきれない。
「……藤宮さん、そういうことはあまり言わないでください」
「ごめんごめん。でもさ」
みずきは少しだけ笑いながらも、今度はことりへ向かって言った。
「朝比奈、今日ほんとにかわいいよ」
その一言は、さっきまでより少しだけ本気だった。
ことりは少し目を丸くして、それから小さくうなずいた。
「ありがとう」
祭りの夜は、少しだけ人を素直にするのかもしれない。
◆
人の流れがまた少し増えてきた。
花火の前に、中心の通りへ人が集まり始めているらしい。
「じゃあ、次どこ行く?」
みずきが言う。
「金魚すくい見たい」
「おまえは子どもか」
「祭りだからいいの!」
「別にいいけど」
影山が肩をすくめる。
ことりはそのやり取りを聞きながら、ふと気づく。
三人でいるはずなのに、空気は全然平等ではない。
みずきは明るく前へ出る。
ことりは静かに隣を取りにいく。
影山はその間で、どちらにもちゃんと反応しようとしている。
そして、自分もまた、その“どちらか”の一人なのだ。
前なら怖かったかもしれない。
でも今は違う。
自分もここにいていい。
そう思えるくらいには、影山くんの言葉を信じられるようになっていた。
「影山くん」
「ん?」
「今日は、来てよかったです」
歩き出す前に、ことりは小さくそう言った。
影山は一瞬だけ止まり、それから言う。
「……俺も」
短い。
でも十分だった。
みずきがその横で「もう! だからそういうの!」と騒ぐ。
ことりは少しだけ笑って、三人でまた祭りの通りへ戻った。
優等生の浴衣は反則だと、見た瞬間に理解してしまった。
たぶん今、影山はそう思っているのだろう。
そしてことりもまた、その反応を見た瞬間に、自分の方もかなり救われていた。
祭りの夜は、まだ始まったばかりだった。




