第36話 祭りの前日、誰もまだ告白していないのに空気だけはほとんど決戦前である
夏祭りの前日というのは、たぶんそれだけで空気が少し変わる。
影山涼太は朝、教室へ入った瞬間にそれを感じ取った。
誰かが露骨に浮かれているわけではない。
みずきはいつも通り元気だし、ことりはいつも通り静かで、レナは相変わらず少し不機嫌そうで、つばさは今日も落ち着いた顔をしている。
なのに、全部が少しずつ違う。
明日、夏祭りがある。
たったそれだけの事実が、教室の空気を一段階だけやわらかくして、同時にややこしくしていた。
「……もうやだな、この感じ」
自分の席へ鞄を置きながら、小さく呟く。
すると、向かい側からすぐにみずきの声が飛んできた。
「何その第一声」
「いや、なんとなく」
「なんとなくで嫌がらないでよ。お祭り前日だよ?」
「それがもう嫌な予感しかしない」
「ひどっ」
みずきは笑っている。
でも今日は、その笑い方の中に少しだけ緊張が混じっているのを、影山は感じ取っていた。
それが分かるくらいには、自分も最近いろいろ見えるようになってしまっている。
それがいちばん面倒だった。
ことりはそのやり取りを聞いて、小さく視線を上げる。
「影山くん」
「ん?」
「明日、委員の仕事は予定通りで大丈夫そうです」
そう言って、手元のメモを軽く押さえる。
それだけの言い方なのに、“だから、ちゃんと行けます”が含まれているのが分かる。
「ああ」
影山が短く答えると、ことりはほんの少しだけ安心したように息をついた。
その様子を、みずきが見逃すはずもない。
「朝比奈、もう前日確認入ってるじゃん」
「ち、違います。確認というほどでは」
「でもかなり大事な連絡だったよね?」
「必要なことなので」
ことりはあくまで落ち着いた声で返す。
だが耳がほんの少し赤い。
レナはそのやり取りを窓際から見て、ぼそりと言う。
「前日からもう面倒」
「おまえがそれ言うのか」
影山が返すと、レナは少しだけ目を細めた。
「私、最初から言ってるけど」
「それはそう」
「でも行くんでしょ」
みずきが聞く。
レナは一瞬だけ黙ってから、目を逸らしたまま答えた。
「……行くなら行く」
「何その答え」
「そのまま」
「別に浴衣着ないんだっけ?」
そこでレナがぴたりと止まる。
「なんでそれ覚えてるの」
「だって二回言ってたし」
教室の空気が少しだけ揺れる。
ことりが思わず口元を押さえ、影山は昨日の自販機前を思い出して少しだけ困る。
レナは本気で嫌そうな顔をした。
「……ほんと最悪」
「でも気にしてるのは事実でしょ」
「藤宮、ほんと余計」
「ごめんごめん」
まったく反省していない声だった。
そこへ、教室の扉のところから静かな声がした。
「おはようございます」
白鳥つばさである。
もう最近は、朝の二年の教室に来てもそこまで違和感がなくなってきているのが怖い。
「白鳥ちゃんも来た」
みずきが言う。
「返却本と、図書室の伝言です」
つばさはそう言いながら中へ入り、でも一瞬で空気を読む顔をした。
「……皆さん、思っていた以上に前日ですね」
「何その言い方」
影山が言うと、つばさは少しだけ首をかしげる。
「だって、かなり分かりやすいですよ」
「誰が」
「全員です」
即答だった。
やめてくれ。
それをそんなにはっきり言うな。
◆
一時間目が始まっても、教室の微妙な浮つきは消えなかった。
祭りの話をしているわけではない。
先生の話はちゃんと進んでいるし、ノートも取っている。
でも、頭の端に明日のことがある感じが、教室全体から薄くにじんでいる。
影山は黒板の字を写しながら、自分でも少しだけ落ち着かないことを認めざるを得なかった。
明日。
ことりは委員の仕事終わりに合流するつもりだ。
みずきは“みんなで”と言いながら、途中で二人になる時間を狙っている。
レナは偶然を装うような顔をしつつ、ちゃんと来る気でいる。
つばさは図書室の仕事が終わったら来ると言った。
そして自分は、その全部を知っている。
「……何なんだろうな、これ」
小さく呟いた時、前の席の男子が振り返った。
「何か言った?」
「いや、何でもない」
何でもないわけがない。
でも説明できるはずもなかった。
自分はいったい、どの立場なんだろう。
相談役。
巻き込まれ役。
中心人物。
どれもしっくり来ない。
でも、ただの傍観者ではもうないことだけははっきりしている。
◆
昼休みになると、それぞれの“明日”が少しずつ見えてきた。
まず、みずきが先に動く。
「影山」
「何」
「明日、部活終わったらすぐ行くから」
「おう」
「だから先にいなくならないでよ」
「何でだよ」
「何となく!」
その“何となく”にかなり本音が混ざっているのは、もうみんな分かっている。
ことりはそれを聞いて、少しだけ視線を落としたあと、静かに言った。
「私は、最初に少しだけ離れる時間があると思います」
「委員の仕事だろ」
「はい。でも終わったらちゃんと連絡します」
それもまた、本音だ。
ちゃんと来る。
ちゃんと合流したい。
そういう気持ちが、ことりの真面目な言い方の奥にある。
レナは二人のやり取りを聞いたあと、少し遅れて口を開いた。
「私は、時間とか特に決めてないから」
「うん」
「だから別に、誰か待たなくていい」
「……黒瀬、それ自分で言ってて意味分かってる?」
みずきが聞く。
「何が」
「“待たなくていい”って、待ってほしい人が言うやつじゃん」
「違う」
「でもそう聞こえる」
「うるさい」
やっぱり面倒だ。
でも、その面倒さの中に、誰も嘘をついていない感じがあるのがさらにややこしい。
そこへ、つばさが少しだけタイミングをずらして言った。
「私は本当に仕事次第なので、遅れたらすみません」
その言い方は、四人の中でいちばん控えめだった。
でも、控えめなぶんだけちゃんと“行きたい”が見える。
影山は思わず全員を見渡した。
ことり。
みずき。
レナ。
つばさ。
誰もまだ“好きです”なんて言っていない。
告白もしていない。
なのに、空気だけが先にそこへ近づいている。
「……前日なのに、もう疲れてきた」
思わず言うと、みずきが笑った。
「早いって」
「早くないだろ、これ」
「でも、ちょっと楽しみでしょ?」
その問いに、影山はすぐには答えられなかった。
否定したい。
でも、完全には否定できない。
その反応だけで、ことりもレナもつばさも、何となく察した顔になる。
みずきだけが、うれしそうに笑った。
「ほら」
「……分かりやすいな、おまえ」
「影山ほどじゃないよ」
「それ最近みんなで言ってるだろ」
「事実なので」
つばさが静かに締める。
その一言で、また教室に小さな笑いが起きた。
◆
放課後になると、教室の中は少しずつ静かになった。
今日は、全員がどこか落ち着かない。
みずきは部活の前なのにやたらと荷物確認をしている。
ことりは委員メモを何度も見直している。
レナは窓の外を見ているふりで、たぶんほとんど何も見ていない。
つばさは入口のところで返却本を持って立っていたが、ページを開いていても読み進んでいないのが分かる。
影山はその様子を見て、心の底から思った。
決戦前じゃないか。
いや、誰も戦うつもりなんてないのかもしれない。
でも、空気だけならかなりそれに近い。
「……ほんとに前日なんだな」
小さく言う。
ことりがその声を拾った。
「何か言いましたか」
「いや」
「でも、私も少しそう思います」
ことりは静かに笑う。
「今までの放課後と、少し違う気がします」
その言い方はやわらかい。
でも、ちゃんと本質を突いていた。
みずきが部活バッグの肩紐を直しながら言う。
「だって明日、何かしら起きそうだもん」
「何かって何だよ」
「そこは、ねえ?」
ねえ、で済ませるな。
レナはそこで小さく息を吐いた。
「誰も何も言ってないのに、空気だけやたら本番前」
「だな」
影山が返すと、レナは少しだけこちらを見る。
「……あんたも、分かってるんだ」
「そりゃ分かるだろ」
「だったら少しは覚悟決めたら」
「何のだよ」
「そこがまだ鈍い」
レナの言い方は少し刺さる。
でも、たしかにそうかもしれないと思ってしまう。
つばさが、いつもの静かな声で続けた。
「先輩、明日はもう“相談役”の位置だけではいられないと思います」
影山は思わずつばさを見る。
「何だよ、その言い方」
「そのままです」
つばさは本を閉じた。
「今までは、相談とか秘密とか、何かしら理由がありました。でも明日は、もう少し違います」
「……」
「みなさん、それぞれにちゃんと“会いたい理由”があるので」
教室の空気が、一瞬だけ静かになる。
ことりが視線を落とし、みずきは口元だけで笑い、レナは目を逸らす。
誰も否定しない。
影山はそこで、ようやく少しだけ息を吐いた。
そうか。
たぶん、そこなのだ。
今までの自分は、理由のある放課後の中にいた。
秘密を拾ったから。
相談されたから。
手伝いを頼まれたから。
たまたま帰り道が重なったから。
でも明日は違う。
祭りという共通の場があるだけで、その中で誰とどう過ごしたいかが前へ出てくる。
相談役としての立場だけではごまかせない。
「……やっぱり、少し違うな」
ぽつりとそう言うと、ことりが静かにうなずいた。
「はい」
「影山、それ分かってるならまあ偉いよ」
みずきが言う。
「上からだな」
「だって前までなら“別に変わらないだろ”って言ってそうだし」
「それは……」
言い返しかけて、やめた。
たしかに前なら、そう言っていたかもしれない。
でも今はもう違う。
違うと、自分でも思っている。
◆
帰り道、一人になったあとで、影山は夕方の道をゆっくり歩いた。
風は少しぬるい。
空にはまだ明るさが残っている。
明日。
夏祭り。
ことりも、みずきも、レナも、つばさも、それぞれ自分なりに明日へ気持ちを向けている。
誰もまだ決定的な言葉は言わない。
でも、それぞれの中で“何か少し動く日になる”と感じているのが分かる。
そして、自分も同じだった。
今までとは違う。
たぶん明日は、相談を受けるだけの立場ではいられない。
誰といて、どこで話して、どんな表情を見るのか。
そういう一つ一つが、今までより少しだけ重くなる。
「……平穏じゃないな」
小さく笑うように言う。
でも、不思議と逃げたいだけでもない。
面倒だ。
かなり面倒だ。
でも、だからこそ、ちゃんと向き合わなければいけない気もしていた。
「たぶん明日は」
駅へ向かう道の途中で、影山は夕焼けの空を見上げた。
「今までの放課後とは、少し違う」
その独白は、自分への確認みたいなものだった。
夏祭り前日。
誰もまだ告白していない。
なのに空気だけは、ほとんど決戦前である。
そして、その中心へ立たされている自分もまた、もう完全には知らないふりをできなくなっていた。




