第31話 夏祭りの話題が出た瞬間、教室の空気が一段階ややこしくなる
夏祭り、という言葉には不思議な力がある。
影山涼太は、朝のホームルーム前にその単語を聞いた瞬間、なんとなく嫌な予感がした。
理由は単純だ。
最近の自分の周囲で、“イベント”の類が平穏に終わった試しがない。
パンツ入りの紙袋から始まり、相談窓口化し、買い物に付き合い、委員の買い出しに同行し、帰り道の空気まで面倒になってきた。
そんな状況で、夏祭りなんて明らかに危険ワードである。
にもかかわらず、教室の女子たちは朝から楽しそうだった。
「ねえ、今年って駅前の祭りいつだっけ?」
「来月の最初の土曜じゃない?」
「浴衣どうする?」
「部活終わってからでも行けるかなあ」
窓際でも、廊下側でも、夏祭りの話が広がっていく。
男子の方も「屋台出るらしい」「あそこの焼きそばうまい」くらいには食いついている。
つまり、教室全体が“イベント前の軽い浮つき”に入っていた。
最悪だ。
「……来たな」
小さく呟く。
すると、斜め前の席からことりが振り向いた。
「何がですか」
「いや、何でもない」
何でもなくない。
だが、ここで「こういうイベントの話題は人間関係をややこしくするから苦手なんだ」などと正直に言うわけにもいかない。
ことりは少しだけ不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
その代わり、ほんの少しだけ視線を落として、自分のノートへ目を戻す。
そういう控えめな動きまで気づいてしまうのが最近の自分で、そこもまた面倒だった。
◆
一時間目と二時間目の休み時間を経る頃には、夏祭りの話題は完全に教室の共通言語になっていた。
誰と行く。
何時に行く。
浴衣を着るか。
部活があるか。
屋台は何を食べるか。
そこまでは普通だ。
問題は、それが自分の近くまで来た時だった。
「影山」
藤宮みずきが、いかにも“今いい話あるよ”という顔でやって来た。
「何だよ」
「夏祭り」
「唐突だな」
「みんなで行こうよ」
来た。
やっぱり来た。
影山は机に肘をついたまま、できるだけ平静を装う。
「みんなって誰だ」
「クラスの何人かとー、部活の子少しとー」
「ざっくりだな」
「あと朝比奈とか、黒瀬とか、白鳥ちゃんも来れたら」
みずきはそこまで言って、にやっとした。
「もちろん影山も」
「もちろん、の位置がおかしいだろ」
「何で」
「明らかに最後についでみたいに入れた」
「そんなことないって」
ある。
かなりある。
しかも、その“みんなで”が表向きの言い方だということくらい、今の影山にはうっすら分かってしまう。
みずきは人前で正面突破しすぎない。
でも、やる気の時はこういう形で先に場を取る。
「どう?」
と聞いてくる目は、わりと本気だった。
影山が返事に困っていると、静かな声が横から入る。
「委員の仕事で、少しだけ行く可能性はあります」
ことりだ。
みずきが「お」と反応する。
「朝比奈も来る感じ?」
「まだ確定ではありませんが」
ことりは落ち着いた声で言った。
「準備の手伝いが終われば、そのまま少しだけ見て帰ることになるかもしれません」
言い方がことりらしい。
遠回しで、でもちゃんと“行く可能性”を置いてくる。
影山はその声を聞きながら、なんとなく察する。
ことりもまた、この話題をただのクラスイベントとして聞いているわけではないのだと。
「えー、じゃあ朝比奈はワンチャン一緒に回れるじゃん」
みずきが言う。
ことりが少しだけ言葉に詰まる。
「そ、そういう言い方をしないでください」
「なんで?」
「なんでもです」
顔は静かだが、耳が少し赤い。
分かりやすい。
最近ほんとうに分かりやすくなってきた。
そこへ、後ろから低い声がした。
「祭りなんて人多いだけ」
レナである。
影山は内心で思う。
絶対気にしてるやつだ、と。
「黒瀬、興味ないの?」
みずきが聞く。
「別に」
「でも来るかもしれないって顔してる」
「してない」
「してるって」
レナは露骨に嫌そうな顔をしたが、完全には否定しきれていなかった。
そこがまた分かりやすい。
「人多いし、暑いし、うるさいし」
「うん」
「だから積極的に行きたいわけじゃない」
「でも?」
みずきが聞く。
レナは少しだけ間を置いてから、視線を逸らしたまま言う。
「……行くなら、途中で会っても別に驚かない」
教室の空気が一瞬だけ止まる。
みずきが先に口を開いた。
「それ実質“私も行く”じゃん」
「違う」
「違わないって」
「違うし」
レナの声はぶっきらぼうだが、完全に逃げ切れていない。
影山は頭を抱えたくなった。
なんでこんなに全員、それぞれ違う方向から参加表明みたいなことを始めるのか。
まだ何も決まっていない。
なのに、もう空気だけは決戦前みたいになっている。
◆
三時間目の前、図書室から戻ってきた白鳥つばさが、その空気を見て一発で察した。
「なるほど」
「何がだよ」
影山が言うと、つばさは淡々と答える。
「夏祭りの話題が出た瞬間、皆さんちゃんと温度が上がってますね」
「白鳥ちゃん、そういう言い方」
みずきが笑う。
つばさは肩をすくめる。
「だって事実なので」
ことりが少しだけ困ったように視線を伏せる。
レナは「うるさい」とぼそりと言う。
みずきは逆に楽しそうだ。
「白鳥は?」
影山が聞いた。
「ん?」
「来るのか」
つばさは少しだけ目を丸くする。
それから静かに答えた。
「図書室の仕事が長引かなければ」
言い方は控えめだが、こちらも完全に可能性を残している。
「来るなら普通に来ればいいだろ」
影山が何気なく言うと、つばさは一瞬だけ黙った。
それから、わずかにやわらかい目をする。
「……そうします」
その返しにまで温度を感じ取ってしまうのが、最近の自分の嫌なところだった。
「はい、これで四方向から来ました」
みずきが指を折るように言う。
「朝比奈、条件付き参加」
「黒瀬、偶然を装った参加」
「白鳥ちゃん、仕事終わり参加」
「私は最初から行く」
「何そのまとめ」
影山が言う。
「分かりやすいでしょ?」
「分かりやすくしてるのおまえだろ」
「で、影山は?」
そこへ戻るのか。
全員の視線が向く。
ことりは静かだが、ちゃんと待っている顔をしている。
みずきは言うまでもなく前のめり。
レナは興味なさそうな顔をしつつ聞いている。
つばさは完全に観察モードで見ている。
なんで祭り一つでこんな重圧が発生するんだ。
「……行けたら行く」
結局、いちばん無難な返事をした。
みずきがすぐに不満そうな声を出す。
「それずるい!」
「何が」
「逃げてる感がすごい」
「逃げてるんだよ」
思わず本音が出ると、ことりが小さく笑った。
レナは「正直」と言い、つばさは「たしかに本音ですね」と頷く。
みずきだけが納得していない。
「でもさ」
「何だよ」
「これ、先に言った人が強いやつじゃん」
その一言で、空気がまた少しだけ変わる。
ことりがぴくっと反応する。
レナが少しだけ目を細める。
つばさは無表情のまま、でも目だけが面白そうだ。
影山は本気でみずきを見た。
「おまえな」
「え、何?」
「そういうことを正面から言うな」
「でも本当でしょ」
「本当でも言うな」
みずきは肩をすくめた。
「じゃあ私は先に言ったからね」
「何をだよ」
「行こうって」
それは、たしかにそうだ。
最初に「みんなで行こう」と言い出したのはみずきだ。
ことりは少しだけ視線を落としたあと、静かに言った。
「私は、まだ仕事次第です」
でもその声の奥には、少しだけ“それでも行きたい”が混ざっているのが分かる。
レナは短く言う。
「私は別に、約束とかじゃないし」
そのわりに、横から刺す視線はかなり本気だ。
つばさは少し考えてから、穏やかに言った。
「私は後から合流なので、順番で言えばかなり不利ですね」
「何の勝負だよ」
影山が本気で言うと、つばさは少しだけ微笑んだ。
「そこを分かってない先輩だから、余計にややこしいんですよ」
やめてくれ。
今日だけで何度そう思ったか分からない。
◆
放課後になっても、その空気は完全には消えなかった。
むしろ、授業中にみんながそれぞれ一度落ち着いたぶんだけ、残り香みたいに教室の隅へ残っていた。
影山は鞄をしまいながら、心底うんざりしたように息を吐く。
「……頭痛い」
「祭りの話で?」
ことりが聞く。
「それだけじゃないけど」
「でも大きいよね」
みずきが明るく言う。
「おまえは大きくしすぎだ」
「だって楽しいじゃん」
「おまえはな」
レナは席から立ち上がりながら、ぼそりと呟く。
「浮かれてるの一人だけじゃないけど」
その言葉に、教室の空気がまた一瞬だけ揺れた。
ことりは何も言わない。
みずきはにやっとする。
つばさはそれを静かに見ている。
「……おい」
影山がレナを見る。
「何」
「余計なこと言うな」
「事実」
「最近おまえら全員“事実”を便利に使いすぎだろ」
「影山くんも“別に”多いです」
ことりが静かに言う。
「朝比奈まで」
「似たようなものです」
「白鳥さん的には、皆さん最近かなり分かりやすくなってきてます」
つばさが追い打ちをかける。
「それ、全然うれしくない情報だな」
影山が言うと、みずきが吹き出した。
「影山ってさあ、ほんとにこういう時だけかわいそう」
「こういう時だけじゃなくてずっとかわいそうだろ」
「自分で言うんだ」
「言うよ」
ことりが少しだけ笑う。
その笑顔は静かだが、やっぱりどこか楽しそうでもある。
こういう時だ。
こういう時、影山は思う。
夏祭りなんて、ただのイベントのはずだ。
屋台があって、人が多くて、浴衣とか私服とかで出かけるだけ。
なのに、その話題が出た瞬間に、教室の空気が一段階ややこしくなる。
みんな、まだ何も言っていない。
告白しているわけでもない。
約束を取りつけたわけでもない。
それでも、空気だけが少しずつ前へ進んでいる。
「……夏って面倒だな」
思わず言うと、みずきがすぐに食いついた。
「何それ」
「いや、イベントのたびにこうなるなら疲れるだろ」
「でもちょっと楽しいでしょ?」
「……否定はしないけど」
その一言に、ことりが小さく視線を上げる。
レナが少しだけ目を細める。
つばさは「記録しました」とでも言いたげな顔になる。
「やっぱり」
みずきが笑った。
「何が」
「影山も、もう完全に無関係の顔ではいられなくなってる」
その言い方に、影山は返す言葉を失った。
たしかにそうかもしれない。
夏祭りの話題一つでここまで意識している時点で、もう“相談役の外側”ではいられないのだろう。
面倒だ。
ほんとうに面倒だ。
でも、やっぱり少しだけ楽しみでもある自分を、もう否定しきれなかった。
「……とりあえず」
影山が言う。
「本番までに空気だけで疲れさせるのやめてくれ」
「無理かも」
みずきが即答した。
ことりは少しだけ困ったように笑い、レナは「たぶん無理」と短く言い、つばさは「むしろこれからです」と静かに締めた。
やっぱり最悪だ。
でも、その最悪さの中で、自分の放課後がもう元には戻らないことだけは、かなりはっきり分かっていた。




