第29話 相談役を続けていたら、なぜか女子同士の空気まで読まないといけなくなるのは理不尽すぎる
影山涼太は、平穏に生きたいと思っている。
これは別に、最近急に思い始めたことではない。
もともとそうだ。
できれば目立たず、できれば余計な面倒へ巻き込まれず、できれば放課後は静かに帰って、自分の夕飯と翌日の弁当のことだけ考えていたい。
にもかかわらず、最近の自分の周囲はどう見ても平穏から遠い。
秘密を拾った。
相談されるようになった。
そして今は、それぞれの女子との距離が微妙に違うことを、周囲も本人たちも、なんとなく察し始めている。
「……最悪だな」
昼休み前の教室で、影山は小さく呟いた。
最悪だと思う理由はいくつかあるが、今日に関して言えば特に目の前の空気だ。
朝比奈ことりが、静かな顔でノートを見ている。
藤宮みずきが、そのすぐ近くで妙に明るい。
黒瀬レナは窓際の席で外を見ているふりをしながら、実際には教室の真ん中あたりの空気を気にしている。
そして白鳥つばさは、今はいないが、こういう日に限って後で絶妙なタイミングで現れる。
もう嫌な予感しかしない。
原因は分かっている。
土曜のみずきとの買い物。
そのあと、ことりとの委員の買い出し。
さらにレナとの帰り道や公園での会話。
つばさとの図書室。
個別に見れば、それぞれはたいしたことではない。
だが全部が同じ教室の中で重なってくると、空気が妙に“見える”ようになる。
誰が何を知っていて。
誰が何を知らなくて。
誰が少しだけ気にしていて。
誰がそれを見ているか。
そんなこと、本来男子高校生が気にする必要はないはずだ。
「影山」
その時、みずきがいつもの調子でやって来た。
「何だよ」
「今日のお弁当」
「第一声がそれで固定されたな、もう」
「大事だから」
「そぼろ」
「おー、いいね」
みずきはそう言いながら、今日は妙に近い距離で机の横へ寄る。
いつも近いのだが、今日は“わざと”感が少しだけ強い。
それを見て、ことりの視線がほんの一瞬だけ止まった。
止まって、すぐ戻る。
そういうのが見えてしまうから嫌なのだ。
「でさ」
みずきが続ける。
「土曜に見たバッグ、やっぱ買ってよかった」
わざとだ。
絶対わざとだ。
「そうかよ」
「うん。影山が選んだやつ」
「俺が選んだっていうか、おまえが最終的に決めたんだろ」
「でも“おまえっぽい”って言ったの影山じゃん」
ことりのペンが一瞬止まる。
レナの視線がこっちを向く。
おい。
なんでそれを今この場で言う。
「藤宮」
「はい?」
「そういうの教室で言うな」
「えー、何で?」
「何でじゃない」
「別にいいじゃん、事実だし」
事実なのが最悪なのだ。
そこへ、静かな声が割って入った。
「藤宮さん」
ことりだった。
「何?」
「それ、影山くんが困ると思います」
言い方はいつも通り穏やかだ。
でも、ちゃんと止めている。
みずきは一瞬だけ目を丸くしたあと、少しだけ口元を上げた。
「朝比奈、そういうの気になるんだ」
「……」
ことりはすぐには答えなかった。
だがその沈黙が、逆に答えみたいなものだった。
影山は机に突っ伏したくなった。
やめろ。
そこを拾うな。
「別に、気になるとかではなくて」
ことりが静かに言う。
「影山くんが困るのが分かるので」
「ふーん」
みずきの“ふーん”には、完全に面白がり成分が入っていた。
すると、窓際の方からレナがぼそりと言う。
「朝比奈はそういう言い方するよね」
空気が一瞬でそちらへ向く。
レナは相変わらず外を見たままだった。
だが口元だけが、ほんの少しだけ不機嫌そうだった。
「何それ」
みずきが聞く。
「そのまま」
「つまり?」
「“困るからやめて”って言いたいだけなのに、影山が困るからって言い方する」
直球すぎる。
ことりが少しだけ目を見開く。
みずきは「うわ」と言って笑いそうになり、でも途中で止める。
教室の空気が微妙に揺れる。
影山は本気で胃が痛くなってきた。
「黒瀬」
「何」
「おまえも火に油注ぐな」
「事実でしょ」
「そうかもしれないけど、今それ言わなくていいだろ」
思わずそう返すと、今度はレナが少しだけこちらを見る。
「……何それ」
「何が」
「庇うんだ」
違う。
庇っているわけではない。
ただこれ以上ややこしくなるのが嫌なだけだ。
だが、そういう時に限って言葉が足りない。
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ何」
「これ以上広がると面倒だから」
「それはそう」
レナは短く返したが、その表情は少しだけ不満そうだった。
たぶん今、自分は何を言っても誰かの方へ少し傾いて見える。
それがもう完全に理不尽だった。
◆
昼休みになると、その空気はさらに面倒になった。
四人が一つの輪に固まっているわけではない。
そんな露骨なことは起きていない。
でも、微妙な距離感の会話が、ひとつの教室の中で連鎖している。
みずきは相変わらず影山の席に来る。
ことりは自席にいながらも、その会話がどこまで雑になりそうかは気にしている。
レナは関わっていないふりをしつつ、時々短く刺してくる。
そしてつばさが、まるで台本でも読んだみたいなタイミングで現れた。
「失礼します」
「来た」
影山が思わず言うと、つばさが少しだけ首をかしげた。
「何がですか」
「おまえがこういう時だけ絶妙なタイミングで来ること」
「観察しやすいので」
「それを悪びれずに言うな」
つばさは返却本を机に置きながら、教室の空気を一度だけ見渡した。
その一瞬でだいたい察したらしい。
「……なるほど」
「何がだよ」
「今日は皆さん、少しだけ表面上は穏やかで、でも水面下はそうでもないんですね」
「その言い方やめろ」
みずきが笑う。
「白鳥ちゃん、やっぱり分かる?」
「分かります」
つばさは静かに言う。
「藤宮先輩がわざと“二人で行った感”を出していて、朝比奈先輩がそれを静かに止めて、黒瀬先輩が横から本質だけ刺してる状態です」
完璧だった。
完璧すぎて、影山は本気で頭を抱えたくなった。
「……おまえ、それをそんなはっきり言うか」
「現状確認は必要です」
「白鳥ちゃん、好き」
みずきが言う。
「やめてください。今の発言は誤解を生みます」
「おまえがそれ言うのか」
レナがぼそっと言った。
つばさは少しだけ微笑む。
「少なくとも私は、今の教室の空気がかなり面倒なことは理解しています」
「ありがとう」
影山が心底疲れた声で言うと、つばさは少しだけやわらかい目をした。
「どういたしまして」
その短いやり取りにまで、みずきがすかさず反応する。
「ほら、白鳥ちゃんも最近ちょっと特別扱い寄りだよね」
「それは違います」
つばさは即答した。
だがその即答の早さに、ことりが小さくまばたきをする。
レナは「へえ」とだけ言う。
影山はもう、誰のどの反応を拾えばいいのか分からない。
こんな細かい空気、普通は男子が読む必要ないだろう。
「……俺、なんで女子同士の空気まで気にしてるんだろうな」
思わず本音が漏れた。
一瞬だけ、教室の空気が止まる。
みずきが最初に吹き出した。
「それはね」
「何だよ」
「影山が中心だから」
「やめろ」
「事実だって」
ことりは少しだけ困ったように笑った。
「否定は、しにくいかもしれません」
「朝比奈まで」
レナは頬杖をついたまま言う。
「少なくとも原因の中心ではある」
「原因扱いかよ」
「だってそうでしょ」
そこへ、つばさが最後のひと押しみたいに言った。
「先輩、そろそろ本格的に中心人物ですね」
影山は、本当に嫌そうな顔をした。
「最悪だ」
「でも、そういう顔してるのがまた原因でもあります」
つばさが平然と続ける。
「何で」
「放っておけない感じが強まるので」
「それ褒めてるのか?」
「分析です」
「便利な逃げ方覚えたな」
教室の空気に小さな笑いが起きる。
でもその笑いの奥に、それぞれ少しずつ違う熱があるのも、今の影山には分かってしまった。
みずきは前へ出るような熱。
ことりは静かに積み重ねる熱。
レナは拗ねながら近づく熱。
つばさは観察のふりをして当事者になる熱。
全部が違う。
違うのに、中心が自分になっている。
それが本気で理不尽だった。
◆
放課後、教室に残った人数はだいぶ減っていた。
みずきは部活へ行き、ことりは委員の書類を片づけている。
レナは帰り支度を終えたはずなのに、なぜかまだ窓際にいる。
つばさは今日は返却本もないのに、なぜか入口のところで立ち止まっていた。
なんで誰もすぐ帰らないんだ。
影山は自分の席でノートをしまいながら、本気でそう思う。
すると、ことりがふいに言った。
「今日は、少し騒がしかったですね」
「少しか?」
影山が返すと、ことりは小さく苦笑した。
「少しではないかもしれません」
「ないな」
レナが短く言う。
みずきがいないぶん静かだが、いないからこそ残っている空気もある。
つばさが静かに口を開いた。
「でも、誰も本気で嫌がってはいないんですよね」
「何が」
影山が聞く。
「この空気です」
つばさは淡々と言う。
「面倒だとは思っていても、完全に離れたい人はいない感じです」
ことりが少しだけ視線を落とす。
レナは何も言わない。
影山は言葉に詰まる。
それは、たぶん図星だった。
今日の昼休みの空気はかなり面倒だった。
でも、誰かを本気で傷つけたいわけではなかったし、自分もこの輪から完全に抜けたいとは思っていなかった。
「……白鳥、おまえたまにほんとにやりにくいな」
影山が言うと、つばさが少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「違う」
「でも、そういうことですよね」
ことりが静かに言った。
「私たち、たぶんみんな少しずつ分かってきてるんだと思います」
「何を」
「影山くんを中心に、自分がどこにいるのか」
その言い方は、ことりらしく静かだった。
でも静かなだけに、やけに真実味がある。
レナが小さく息を吐く。
「やっぱ優等生ってこういう時の言い方うまい」
「黒瀬先輩も、かなり分かって言ってますけどね」
つばさが返す。
「白鳥は黙って」
「それは無理です」
ほんの少しだけ空気がゆるむ。
影山はそこで、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
面倒だ。
ほんとうに面倒だ。
でもたぶん、自分が今いちばん嫌なのは“女子同士の空気を読まされること”そのものではない。
それだけ、それぞれの気持ちが自分の周りへ集まり始めている事実の方だ。
自覚したくなくても、自覚させられる。
そういう段階へ入ってきている。
「……帰るか」
影山が言うと、ことりが小さくうなずき、レナは立ち上がり、つばさも入口から身を引いた。
「先輩」
つばさが最後に言う。
「何だよ」
「本格的に中心人物ですね」
「蒸し返すな」
「事実なので」
「やっぱりおまえ、そういうとこだぞ」
つばさは楽しそうに少しだけ笑った。
ことりも小さく笑い、レナは呆れたように目を細める。
その空気を見て、影山はまた思う。
相談役を続けていたら、なぜか女子同士の空気まで読まないといけなくなるのは理不尽すぎる。
でも、その理不尽さから完全に逃げたいわけでもない自分がいるのが、いちばん厄介なのだった。




